秋と櫛





























 もうすぐ終わるから。
 そう言って、どれだけの日が経っただろう。
 彼は相変わらず眠らない。食べない。笑わない。
 静かな背中を見つめたまま、ヴィンセントは洗いたての白衣を畳み、その襟元を正す。
 同じように白い天井を見上げ、ひとつ、息をつく。
 そして、返事のない背中に問いかけてみる。
「今日は何を食べたい?」
 少しだけ微笑んで、そう言ってみるけれど。
 沈黙を守る背中は、じっとパソコンのディスプレイに向いたままぴくりとも動かないのに、 指だけは壊れた機械のように動き続けている。
 もしかしたら、本当に壊れているのかもしれない。
 そんな彼に、何を言っても、何をしても、返事や反応はない。
 ヴィンセントは静かに立ち、テーブルの上にあった櫛を取ると、音もなく宝条の背後に立った。
「・・・もうすぐ、終わるのだろう」
 言い、ずっと梳かしていなかったのだろう髪に、櫛をさす。
「終わったら、ゆっくり眠るといい」
 また、何か食べものを作っておくから。
 風呂も、いつでも入れるようにしておくから。
 誰にも邪魔させないから。
 だから。
「ゆっくり、休むといい」
 亡霊のような男は、髪を梳かされるまま、キーを叩き続ける。
 ヴィンセントには解らない言葉で書かれる報告書と、データの山。今の宝条には、 そのことしか見えていない。
 鬢の髪も丁寧に梳き、ヴィンセントは彼の肩に両手を置く。
「少しでも、休暇をとるといい」
 泣きそうな声が、掠れる。
 そんな声もきっと、届いていない。
 




 ごとりという音がして、ヴィンセントはソファに横たえていた身体を起こす。見れば、 宝条が椅子から落ちて、床に転がっていた。
「・・・やっとか」
 苦笑し、彼はそっと歩み寄る。
 ディスプレイの中の報告書と論文は完成していた。
 気を失った宝条は、青ざめて冷たい頬を床に押し当てたまま、本当の死体のように 転がっている。
 しばらくそれを見つめ、呆れたように溜息を漏らすと、いつものように彼を抱き上げてソファに運ぶ。
「・・・何度目だか」










 会いたかった。
 48時間後に目を覚ました男は、そう呟いた。
 寝起きの眼は虚ろで、それでも確かにヴィンセントを映す。
 そしてもう1度、言った。
「会いたかった」
 ヴィンセントは目を伏せ、微かに笑う。
「毎日、会っていたじゃないか」
「・・・ずっと会っていなかった気がする」
 きみの声は聴こえていたけれど、なぜだろう、記憶に残ってるのは、 報告書の内容だけなんだ。
 ぼんやりと虚空を見つめ、宝条はこめかみを押さえる。
 とんでもない男だ、と、ヴィンセントは肩をすくめた。
 そんな彼に、宝条はまだ弱々しい腕を伸ばす。
「・・・来てくれないか」
 触りたいのだが、身体が動かない。
 何日間も食べていないんだから、当たり前だと罵りたくなりながら、 それでもヴィンセントは彼の横にしゃがむ。
 宝条は本当に・・・、本当に、病人のように弱々しく微笑む。
 以前ポトフを作ってやったときよりも、ずっと、脆い。
 ヴィンセントは冷たい手をとった。
「なにか、食べるか?」
 返事はなく、首が左右に振られるだけだ。
 水は、果物は、風呂は。
 全てに、同じ行動が繰り返される。
 ヴィンセントはしばらく黙り、仕方ないな、と、呟いた。
 そして、あまりにも甘い口付けを、差し出した。
 彼がそれ以外のものを望んでいないと、解ったから。
 常のように、呼吸をするのももどかしいような、そんなキスとは違う。
 ゆっくりと、時間をかけて、体温を分けるように触れ合わせる。
 しばらくそうして、ヴィンセントは再び尋ねた。
「なにか、食べるか?」
 宝条は笑い、動きすら拙い指で相手の黒髪に触れた。
「じゃあ、ポトフを」
「・・・ああ」
「・・・その前に、もう1度」
 強請られ、ヴィンセントは精一杯、無表情を装う。
 仕方ないな、と、もう1度呟いて。





 そうだ、と、宝条がポトフの皿から視線を上げる。
 スプーンには大きな人参が乗っていた。
「君、私の髪をとかしてくれたかな?」
 テーブルの上の櫛に視線を落とし、ヴィンセントは目を伏せる。
 そして「どうかな」と、コーヒーカップに口唇をつけた。
 少しだけ可笑しくて、笑ってしまう。
 宝条もまた、同じように目を伏せたまま笑う。
 もう秋だね、なんて呟いて。








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2005.09.30







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