秋と浴室





























 ラボの片隅に備え付けられている、シャワールームと呼ぶには豪奢な、浴室。 そこは、研究に煮詰まった宝条の、逃亡場所のひとつ。
 タオルも着替えも持たず、男はふらりとそこへ向かう。
 温水器の温度設定をするのは、白衣を脱いでからだ。それが彼の 癖だと気付いたのは、いつだったろうか。
 白く骨ばった指が、温度をひとつひとつ上げてゆく。
 それを見ながら、ヴィンセントはもう秋なのだと知る。
 彼は人よりも寒がりだから。
 9月の半ばから温度は上がってゆき、ピークは2月。
 彼がシャワーの温度を上げ始めるときが、寒くなってゆく始まりなのだと知った。





 男が無言のまま浴室に消えると、ヴィンセントは黙って脱衣所に入る。 用意してあった着替えを一式と、畳まれたバスタオルを1枚、今では見ることも珍しい 竹篭の中に放り込む。
 耳を澄ませば、空の浴室の底に、高い場所から水が叩きつけられる音しかしない。 いつものように、冷たい浴槽に蹲ったままお湯を浴び、それが溜まるのを じっと待っているのだろう。
 ヴィンセントは脱ぎ捨てられた白衣のポケットから、潰れた煙草を取り出す。 吸おうと思ったが、ライターはない。ほんの数歩歩けばそれはあるにも関わらず、 彼はそんな気が起きなかった。
 ずる、と、壁に寄りかかったまま床に座る。
 ふたりを隔てているのはこの壁ではなく、水音だ。
 そんなことを考え、目を閉じた。





 そろそろか。
 呟き、ヴィンセントは薄く目を開けて立ち上がる。
 浴室からは、シャワーの音が途切れることなく続いている。
 彼は何も言葉をかけず、浴室の戸を引いた。
 宝条は、浴槽の中で首を後ろに傾いだまま目を閉じている。正確にいえば、 眠っていた。
 シャワーのお湯が、彼の顔に当たっては浴槽を満たす。既に中の湯は男の 胸元まで来ていた。
 ヴィンセントは腕をまくり、そっと男の背に手を添える。
 それから、気付いたようにシャワーのコックを閉じた。
 何も不安などないように、先刻まで自分を悩ませていた存在のことなど 忘れたかのように、宝条は目を閉じている。
 薄く開かれた口唇から、つつましく規則的な呼吸が漏れていた。
 まったく。
 呟き、ヴィンセントは一気に男の体を浴槽から抱き上げた。





 温まった身体を冷やさぬように、彼は急いでタオルをかぶせる。あらかたの 水分をとり、戸棚から洗濯したばかりのバスローブ――宝条が頻繁に こういう状況に陥るものだから、ヴィンセントが買った――を着せる。
 そのまま、ラボのソファに横たえ、ひとつ息をする。
 どうやら、彼の睡眠を邪魔することはなかったらしい。
 よかった、と、素直に思う。
 濡れたジャケットを脱いで浴室にあったメガネをテーブルの上に置くと、 ヴィンセントはそっと、彼の顔の近くにしゃがんだ。
 こんなに。
 こんなにも、無防備に。
 安堵したように眠られたら。
 甘やかしてやるしか、ないではないか。
 ・・・間抜け面。
 言っても、きっと本人には聴こえていない。
 ヴィンセントは困ったように笑い、濡れた髪をそっと梳くと、いつもより 温かな額と頬に、1度づつ口付けておいた。





 しばらく後に、彼は知る。
 宝条が浴室を使うのは、ヴィンセントといる時だけらしい。





 それを知ったときの、ヴィンセントの顔といったら。








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 博士のことをしょうもないと思いつつも、かわいくて仕方ないヴィンセントの話、です。
 かわいい博士もだいすきです。



2005.09.20







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