B C Party

 



月球儀シンドローム




 鬱々とした雨の続く季節。
 宝条のラボに、ガラスの月球儀が届いた。
 直径が30cmほどで、透明に透けたそれに、ヴィンセントは身体を屈めて見入る。指紋ひとつない 表面はクリスタルのようで、触れることすら許されない水晶のようだった。
「なぜ、地球儀ではなくて月球儀を?」
 ヴィンセントは背後で同じように月球儀に見入っている宝条を振り仰ぐ。男は 煙草の煙を吐き出して微笑んだ。
「退屈だったからさ」


 鬱屈とした毎日の中で、2人は度々月球儀を見つめた。
 特注だというそれは、まだ誰も触れてはいない。
 ソファに横になったまま、ヴィンセントはその透明な球体を隅から隅まで見つめる。その間、 彼の思考は現実から切り離されていた。
 地球儀とは違う。自分の歩いたことのない世界。
 窓の外を見れば、青白い月はそこにある。
 そして、自分たちの手の中には、もうひとつのガラスの月。


 仕事に疲れ、コーヒーを飲む。煙草を吸う。新聞を読む。
 その宝条の生活のサイクルに、新しいものが加わる。
 月球儀を眺めるだけの、無の時間。
 その球体の内側には蛍光塗料が塗られていて、夜になるとその球は暗闇の中に 静かに浮かび上がった。
 その光景を、宝条もヴィンセントも、いたく気に入った。


 ラボの中のテーブルは、ソファに挟まれている。そのテーブルの上に、いつもその 月球儀はかしこまって座っていた。
 大切に大切に、まるでガラス箱に入った宝石のように。


 静かで穏やかな時間は、突然壊される。


 朝、宝条が研究室に入ると、ヴィンセントがドアに背を向けたまま立ち尽くしている 姿が目に入った。
「ヴィンセント、どうしたんだ」
「・・・月球儀が」
 テーブルの脇に、砕け散ったガラスの破片が散らばっている。
 軸や、台。それが月球儀であることは、明らかだった。
 宝条は、言葉を失う。
 彼もまた、立ち尽くすしかできなかった。
 ヴィンセントはクレーターの刻まれた破片を拾う。
「月は、誰かの手の中にあってはいけないんだ」
 人を惑わすそれは、空にあるのが相応しい。
 宝条はブリーフケースをソファに置き、砕け散った「彼」の破片を少しづつ、拾い集めた。



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 なんということはない話を書きたかったもの。
 こういう時間は、幸福だと私はおもいます。


2004.09.09







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