乾いた、春一番が吹いた日。
 風が強い日だ、と思いながらも、ヴィンセントは屋敷の窓を開けた。 神羅屋敷は、古いわけではないのに、悉く窓枠の動きが悪い。 ぎしぎしと音のするそれと格闘するだけで、窓を開けることを諦めてしまいたくなる。
 この屋敷の空気が淀んでいるのは、窓のせいなのではないかと、彼は初めて気付く。
 やっと窓を開ける。
 そこで初めて、ヴィンセントは春の訪れを知った。
 考えてみると、記憶が曖昧であった。冬の間、特に年度末にかかってからは、 外の空気を知ることもなく、毎日が過ぎていった。
 何をしていたかと言えば、相変わらず、宝条の雑用だ。
 いつ雪が降ったのか、いつ溶けたのか。
 もしかしたら、春の足音はもっと早く彼らに近付いていたのかもしれない。 しかし、それに気付けなかったことに、ヴィンセントは少なからず落胆する。 なんだか、損をしたような気分になるのだ。
 窓を開けたまま、ヴィンセントは隣りのベッドに眠っている宝条の肩をゆさぶった。
「宝条」
「・・・なんだ。しばらく寝ていないんだ、起こすな」
 蒲団を被りなおそうとする手首を掴んで、ヴィンセントはもう一度名前を呼ぶ。
「宝条、起きろ、春がきたんだ」
 春がきた、と言って起きるなんて、まるでどこかの国の妖精だ。
 自分で言いながら、少しだけ気恥ずかしさが漂う。
 宝条は『何を言い出すのか』という顔で、やっと首を回した。
「何がきたって?」
「・・・春だ」
 もう一度言うのも躊躇ったが、ヴィンセントは真顔で繰り返す。
 何を子どものようなことを、と、笑われるような気がした。
 しかし宝条は、黙ったままでむくりと身体を起こした。そんな彼に眼鏡を手渡し、 ヴィンセントは窓に向かう。
「春一番が吹いたんだ」
「・・・そうか」
 落ち着いた声だった。
 不機嫌そうでもない。退屈そうでもない。
 ただ、ヴィンセントの言葉を受け止める。
 庭を見下ろすと、庭師の青年が、イヌツゲの剪定をしている。 まだ、朝の8時だというのに、汗をかいている。早くから来ているのだろう。
「彼は、いつから来ていたのだろう」
 ヴィンセントの問いに、宝条は「さあな」と返す。
 地元の青年だということは解る。そのような雑事を、 神羅はニブルヘイムの人間たちに任せているからだ。
 きっと、その青年は、春の匂いをもっと早くから感じていたはずだ。
 宝条は、窓際の椅子に退屈そうに座っている。
 彼のような人間が、春をどう思っているのか、ヴィンセントには解らない。 それでも、手を取らずにはいられなかった。
「散歩にでも行かないか」
「・・・散歩?どこに」
「灯台のほう、とか、あるだろう」
 気持ちの悪いセリフだ。
 春になったから散歩に行こうと、男を誘うなんて。
 宝条はゆっくりと立ち上がり、少しだけ笑った。





 海は、白波が立っていた。風のせいだろう。
 宝条は、顔に張り付く前髪を払いながら呟く。
「知っているか。風の強い日に海にくると、眼鏡が塩で曇る」
「・・・そうなのか」
 悪かったな、と、ヴィンセントは素直に詫びる。
 宝条は、些細なことで不機嫌になる。そうかと思うと、 こんなことでも平気なのか、というほどの出来事が起こっても、 平然としていたりする。彼の機嫌を操作するのは、とても難しい。
 暖かい風が、宝条の白衣をなびかせる。
 美しい陽光が、白い灯台をさらに白く照らしていた。
 ただ、純粋に、きれいだと思う。
 ヴィンセントは眉を寄せたままの宝条の前に立った。
「曇るのが嫌なら、はずしてしまえ」
 言い、眼鏡の両蔓を持ち、外してしまう。少しだけ目を閉じて、 宝条はされるがままに、眼鏡を奪われる。
 蔓を折りたたみ、胸ポケットに仕舞い、ヴィンセントは宝条の前髪をそっと指で払った。
「眼鏡なんてなくても、景色は大して変わらない」
 宝条は、目を細めた。
 風景には、ぼかしフィルターがかかっている。
 しかし、硬質さを奪ったその柔らかな線が、今は心地よい。
 乱視のせいで、水面の煌きが、幾重にも見える。
 宝条は、微かに笑った。
「お前は残念だな」
「なぜ」
「きっと、今は私のほうが、美しいものが見えている」
「・・・そうか」
 それならそれで、いいさ。
 低く、穏やかな声が、風と共に宝条の鼓膜を震わせる。
 息をつくのも難しいような突風。
 顔に、再び黒髪がまとわりつく。
 宝条は、反射的に目を閉じてしまった。
 その瞬間に、唇は攫われる。
 油断。
「・・・間に、髪の毛が挟まった」
 少し、失敗したと言うように、ヴィンセントは呟いた。
「変な隙を狙うからだ」
 唇の髪の毛を払い、宝条は目を伏せ、笑った。
 学生でもあるまいし。
 そう、心の中で思う。
 口付けが失敗したときの、不思議な気まずさ。
 失敗しちゃったね、と、笑って誤魔化すような雰囲気。  片手をポケットに手を入れ、片手を唇に当て、ヴィンセントはそのような表情で笑っていた。
 本当に、学生のような表情で。
「君の・・・・・・」
 言いかけて、宝条は口を噤む。
「なんだ?」
「いや、なんでもない」
「どうせ、ろくなことではないんだろう」
「卑屈だな」
 白い砂をざくざくと踏みながら、ヴィンセントは歩き出す。
 半歩後ろを歩きながら、宝条はその背中を見つめた。
 眼鏡がないせいで、はっきりと見えない。
 抽象的な後姿。
 その後姿が、不意に振り向いた。
「リベンジしてもいいか」
 真面目な顔に、宝条は「なにを」と問う。
「さっきの」
「・・・ああ、別に、そんなこと」
 言いながら、噴出しそうになってしまう。
 今度はちゃんとやるから、と、必死になっている学生のようだ。
「春だからって、どうかしたのか?」
 そう返すや否や、ヴィンセントの脚が、1歩、踏み出された。
 髪の毛をまとめるように、両頬を掴まれる。
 意地になっているような、やけくそになっているような、そんな口付けだった。





 眼鏡をかけ直しながら、宝条は考える。
 きみの、そういうところがすきだ。
 そう言おうとして、また、やめてしまう。
 退屈しないのだ。
 やけくそになっても、結局優しい口付けをしてしまう。
 真面目だ。
 それでも、退屈しない。
(なんでだろうな)
 思いながら、ヴィンセントの横を歩く。
 理屈で説明できないことは、普段なら気持ちの悪いことだ。
 しかし、今日はなぜか、そうは思わない。
(・・・なんでだろうな)
 考えても、考えても、それらしい理屈は出てこない。
 それでもなぜか、宝条は笑ってしまった。












 書いていて、なんだかムズムズしました笑
 どうして、春はそういうものを書きたくなるのだろう。

 ちなみに、どこかの国の妖精とは、ムーミンです。春がくると、飛び起きて、「春が きたぞー!」と飛び回る、そんなムーミン。かわいい。




2008.3.27







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