顕微鏡の外

















 本当のことを言うと、彼の笑顔が好きだった。
 皮肉を言うときの笑みではない。嘲笑でも、苦笑でもない。
 ただ、空気に溶けるような笑顔が、とても好きだった。  細め、伏せられた目と、口を閉じたまま上げられる口角と、吸い込まれていた 空気が滑り出るような吐息。
 勿論、そんなことを口に出したことは1度もないし、この先もわざわざ告げる予定もない。
 それでも、ただひっそりと、心の奥底で待ちわびていた。
 









 ラボに置かれているテレビを観ながら、ヴィンセントは脚を組みなおして身を乗り出した。明朝に 起こった集団自殺のニュースが流れている。
 今までに例を見ないほどの人数で、30人以上が死んだらしい。
「宗教団体ではないらしいが、どうだろうな・・・」
 椅子を回し、宝条は見下すようにテレビの画面を眺める。
 愚弄している態度をここまで隠さない人間も珍しい、と、ヴィンセントは いつもながら思う。
「30人も勿体無いものだ。死ぬなら、私のところへくればいいものを」
 予想したとおり、議論をする余地もない。
 ヴィンセントは思わず眉を顰めた。
「あまり死者を冒涜するものじゃない」
「君は私の母親か何かか?」
 鼻息だけで笑い、宝条は身体を傾けて頬杖をつく。
 挑戦的な瞳だ。
 善人の論説を聞こうではないか、というような。
「私ならば、こんな安物の睡眠薬などよりも、 ずっと楽に人間を終わらせてやることができる」
「・・・もういい」
 死なせる、ではなく、人間を終わらせる。
 彼は、そう言った。
 ヴィンセントは組んでいた脚をほどき、目を閉じる。
 宝条の心の闇を知るのは、こういう瞬間だ。
 ヴィンセントは、彼が心の奥底で企むものたちを察するたびに、 得体の知れぬ恐怖と悲哀に胸が痛む。
 人生の楽しみなど、まるでないような男に見える。
 宝条の生活を知る人間ならば、きっと誰もがそう感じるだろう。
 むしろ、生きているのか、死んでいるのか、解らないような。
「・・・宝条、仕事以外で、何か楽しいことはないのか・・・?」
「楽しいこと?」
「そうでなくても、嬉しいこととか・・・、なにか・・・」
 顕微鏡の中よりも、広い世界で。
 そう尋ねても、男は退屈そうに笑うばかり。
「この世界のどこに、そんなものがある?」










 午後になると、ミッドガルの天気は急激に崩れた。
 外回りをしていた社員たちは、新聞紙や鞄を頭の上にかざして、 慌てながらロビーに入ってくる。
 ヴィンセントは飲みかけていたカフェラテをテーブルに置いた。
 今日は集団自殺のせいで、常に待機している検死官では手が回らなくなっていた。 おかげで、宝条までもが検死に出なければならなかった。
 面倒くさいからとは言えず、医学博士の資格がないからという理由で断ったものの、 結局引きずり出されてしまったらしい。資格はなくとも、 そのへんの研修医よりは人体に詳しいことが仇になったのだ。
 ヴィンセントは休憩用のスツールから降り、傘を手にとった。










 遺体安置所は、神羅本社の中にもあるが、今回はさすがに全ての 遺体を入れることができなかったため、0番街の安置所に回されたらしい。
 車を出すよりも歩いたほうが早い。
 そこは、神羅の本社から徒歩で10分ほどの場所だった。
 2階経てで、真っ白な壁を持つ、さほど大きくない建物。
 そこから、白い男がずぶ濡れで歩いてくる。
 白衣のポケットに両手を入れ、猫背で、うんざりとしたような顔。
 眼鏡や、濡れた髪を拭いもしていない。
 ヴィンセントは立ち止まり、男の名を呼んだ。
「宝条」
 呼ばれた男は、顔を上げて、微かに目を見開いた。
 ヴィンセントは歩み寄り、彼の上にそっと傘をさす。
 強い雨のせいで、ほんの数10メートル歩いただけなのに、 宝条は上から下まで濡れねずみになっていた。
「・・・検死は?」
「終わった」
「・・・どうだった」
「話したくない」
 腹の底から嫌気がさしているような声だった。
 ヴィンセントには、それが何故なのかは解らない。
 どうせなら、私のサンプルになればいいのに、と思っているのか。
 もう死体は見たくない、という気持ちなのか。
 もしくは、こんなに簡単に命を捨てて、と、考えさせられたのか。
 いや、それはどうだろうか。
 どちらにしても、ヴィンセントはこのような時の宝条を 追撃するようなことはしない。
 言いたくないことは、言わなくてもいい。
 ヴィンセントは、ポケットからハンカチを出して、目を伏せたままの宝条の髪の毛を拭いた。
 それは、すぐに水に浸したようになってしまったが、それでも彼は、片手で絞りながら、宝条の顔や、首や、 肩の水を払い続けた。
 ひととおり拭き、濡れたままのハンカチをポケット入れ、乱れてしまっている 宝条の前髪を指先で整え、ヴィンセントは言った。
「帰ろう」
 ・・・帰ろう。
 その言葉に、宝条の吐息が、笑った。
 ヴィンセントは、はっとしたように男を見つめる。
 笑ったままの吐息で、宝条は呟いた。
「まったく・・・、きみは・・・」
 きみは。
 続きを言うこともせず、宝条はゆっくりと首を傾げる。
 その顔には、ヴィンセントが望む笑みがある。
 困ったような、それでいて、幸福そうな。
 冷たい鼻と鼻とをくっつけて、触れるだけの口付けをすると、宝条はもう1度笑った。
 初めてキスをした人間のようだな、と。
 ヴィンセントは知る。
 思い知る。
 宝条の、顕微鏡の外での幸福の在り処を。
 











 何が書きたいのか解らないまま出来てしまいました。
 ある程度予測していたものの、やはりヴィン宝のようになってしまいましたが笑、 こういう、ぼんやりした話も書いていて楽しいです。



2007.05.××







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