冷たい朝がくる

















 冷たい朝がくる。
 テーブルの上に置かれている飲みかけのコーヒーには、薄い氷が張っている。 温度計を見なくとも、氷点下であることは解った。
 夜中から社内の空調設備の調子が悪かったが、朝になっても直っていない。技師たちが 来ていないのかもしれない。
 ヴィンセントは毛布にくるまりながら、ラボの天井を見上げる。ソファからはみ出ている長い脚は、 冷気に凍えていた。デスクでは、同じように毛布にくるまったままの宝条が、机に顔を突っ伏して眠っている。
(寒い)
 昨日、自分のデスクに書類を投げると、ふわりと埃が舞った。 それだけの間、自分が自分のデスクを使っていなかったことに、彼は少なからず驚いた。
 気付けばいつも、宝条のラボで、こうして朝を迎える。
 何かがあろうとなかろうと、日常化してしまっているのだ。
 ソファから身体を起こし、ヴィンセントは加熱器のスイッチを入れる。ビーカーに水を注いでその上に置き、 毛布にくるまったまま、じっと腕を組む。
 彼は時折、想像だけで不安に煽られることがあった。
(あまり長い時間ここにいるのは、まずいのではないか)
(既に、誰かが私たちの関係に気付いているかもしれない)
(監視カメラにだって、写っている可能性はある)
 そのような考えが、泉のように湧いてくる。
 ヴィンセントは紅茶のティーバッグをビーカーに入れ、加熱器のスイッチを切る。
 赤い色が、ビーカーの下に沈んでゆく。
(・・・同性愛者・・・)
(ひとの偏見は、未だに根強い・・・、・・・ばれれば・・・)
(白い目で見られる・・・)
 じっと考えている間に、紅茶はかなりの色が出てしまっていた。
 ヴィンセントは慌ててティーバッグを持ち上げ、ダストボックスに放る。
 床に、紅茶が点々と滴った。
(・・・ひとの目は・・・怖ろしい・・・)
 指先が震える。
 持とうとしたビーカーが手のひらから滑り落ち、派手な音を立てて、割れた。





 意味が解らない。
 テーブルに置かれている破れた紙片をパズルのように組み合わせながら、宝条は不満げにそうこぼす。
「何を今更『距離を置こう』だ」
「それひとつよこして。分析するから」
 宝条のピンセットから紙片を取り、ルクレツィアもテーブルを見つめる。
「私でもきっと、そうすると思う」
 テーブルから顔を上げて、宝条は眉を寄せる。
 その細い眉の端が、神経質そうにぴくりと動いた。
「距離を置くのか?同性愛者とばれるのが怖くて?」
「・・・あなたが思っている以上に、世の中は同性愛者に対してシビアなものよ。私の友達にもいたわ」
「・・・・・・」
「腹が立たない?同性愛者というだけで、同性みんなから「自分まで好きになられたら困る」なんて言って 避けられて。こっちだって好みがあるって、言い返したくならない?異性だったら、そんなこと あるはずないのに」
 差別的な思考を憎む彼女は、語気を荒くしながら紙片を試験管に落とす。試薬を垂らすと、 それはすぐさま青く変化した。
「ビンゴ。コカインだわ」
「・・・こうして鑑識もどきのことをしているおかげで、タークスともべったりだというのに、何が 距離を置こうだ」
「・・・拗ねてるの?」
 その言葉が不本意だったのか、宝条は苛立つように椅子から立ち上がる。
 勢いで紙片が散らばり、ルクレツィアは慌ててそれを押えた。
「怒るのはいいけれど、仕事はきちんとして」
「してるさ」





「だめだ」
 宝条を押しのけ、ヴィンセントは顔を背ける。
 資料室の棚に両手を当てたまま、白衣の男は首を傾げた。
「なぜ」
「・・・なぜ、じゃないだろう・・・」
 微かに息をつき、ヴィンセントは彼の腕の中から逃れる。
 曲がったタイを直そうとする指は、とても冷たい。
 ヴィンセントは時折、えもいわれぬ不安に苛まれた。
「・・・宝条。お前は怖くないのか」
「なにがだ」
「今の・・・この関係が周囲に知られたらとは、考えないのか」
 考えたこともなかった、というように、宝条は肩を竦める。
 逆に「そんなことを考えていたのか」とでも言うように笑われる。
 ヴィンセントは苛立った。
 この男にとってなら、世間などは怖れるほどの存在ではない。
 しかし、・・・しかし、だ。
「世の中はお前が思っている以上に、同性愛には厳しいんだ」
「不当解雇されても、神羅相手には訴えられないからな」
 冗談のように笑うが、ヴィンセントは本気であった。
 自分たちの関係を、他人に知られたくなかった。
 白い目で見られることが恐ろしい。
 同性愛は自由だと口で言いながらも、嫌悪感を持つ人間は多い。
 タークスと社内の科学者が肉体関係を持つ。
 それだけで、人の話題には充分なりうるのだ。
「しばらく、私には関わるな。ただでさえ2人きりでいることが多いんだ。 余計な噂が立つのは避けるべきだと、お前ならわかるだろう」
「・・・わからないな」
 わからない。
 繰り返し、宝条はヴィンセントの手をとる。
 ふりほどく間もなく、耳朶をよぎる吐息。
 赤い眼球が震えた。
「『わかることといえば、あの方がわたしに傷を負わせたこと』」
 囁かれ、ヴィンセントはもう1度、宝条を押しのける。
 強い意思を露わにしながら、彼は拳を握る。
「詩を読むようなことじゃないんだ。もっと現実を意識しろ」
 相手の返事を待たずに、ヴィンセントは資料室を出た。





 腹が立った。
 宝条ほど科学者然とした生き方をしている男が、 なぜ、現実的な問題を理解できないのか、解らなかった。
 愛しているから、という理由だけで渡ってゆける世の中ではない。
 どれだけ愛があろうとも、同性愛に対する偏見は未だに根強い。
 求め合うだけならば、幾らでもできる。
 しかし、感情的な行動は、ひとを滅ぼす。
(あいつも、そのことぐらい解っているはずだ)
 書類を投げるようにデスクに置くと、薄い埃が舞い上がる。
 結局、これだ。





 腹が立った。
 なにが現実問題だと、蹴り飛ばしてやりたくなる。
 確かに、宝条にとってこの会社の、この実験環境を失うのは痛手だ。
 だが、ヴィンセントが述べる理屈は、宝条にとって「退屈な理屈」であった。
 責められることが怖い。
 他人の言葉や視線が怖い。
 そんなものが、一体なんの痛手になるというのだろうか。
 宝条には自負があった。
 自分ほどの逸材を失って困るのは、会社そのものだということである。
 給料とラボさえ守られれば、宝条にとって怖れるものは何もない。
(ヴィンセントにとっても、それは同じはずだ)
 優秀な、タークスの男。
 仕事さえできれば、他の視線などどれほどの損害にもならない。
 宝条は眼鏡を外し、こめかみを強く抑える。
 久しぶりに頭痛がした。





 冷たい朝がくる。
 そんな男の背中を、ヴィンセントはコートのポケットに手を入れたままじっと見つめている。 時折、かじかんだ指に白い息を当てているのが、まるで子供のように見える。
「律儀だな。一週間もそうしてラボにこもっていたのか」
 振り向かない頭は、そのまま顕微鏡を覗いている。
「何をしに来た」
「・・・他の社員が不審がっていたぞ。ラボにこもりったぱなしだと」
「他の社員とは誰だ」
「・・・・・・」
「・・・タークスから回された微量分析が終わらないだけだ」
 椅子を回し、宝条は青白い顔をヴィンセントに向ける。
 何も答えない彼の頬を、毛布の裾から出された手が撫ぜる。
 思いのほか暖かい感触に、ヴィンセントは目を眇めた。
「・・・『いい芝居も、最後は流血』」
「君も、詩を詠むのか?」
 ヴィンセントはそんな皮肉に目を伏せて、宝条の頬を両手で包む。
 美しいものの終わりが流血ならば、何も変わらない。
 多くを守ろうとしても、それらはやがて淘汰されてゆく。
 そして、この身は残された愛の果てに血を流して消えゆくのだ。
 それならば。
 どうしようもない過去と現在を引きずるしかないのだ。
 どうしようもない想いを連れてゆくしかないのだ。
「覚悟を決めた死刑囚のような顔をするな」
 美しい指に口付けて、宝条は微かに笑う。
「終わりを怖れるならば、終わらせなければいいだけの話だ」
「・・・死は訪れる」
「どうかな」
 青年の腰を抱き寄せて、男は目を閉じる。
 どうかな。
 その言葉が、ヴィンセントの背筋に何かを走らせる。
 恐怖なのか、快楽なのか、わからないもの。





 それが彼を、流血の終わりに誘い出す。
 











 人の目の不安怖れても、結局は愛に負けるヴィンセントの話。
 かなり時間がかかったにも関わらず、出来がいまいちでした。

『いい芝居も、最後は流血』
 という言葉は、パスカルのものです。
 前者は忘れました。


2006.04.××〜2007.03.21







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