亜麻色

















 世の中には、「人生には三度、もてる時期が訪れる」などという俗説がある。 それを最初に言った者、もしくは、根拠を見出した者は、一体誰なのだろうか。
 そして、「もてたくない人間などいない」と言ったのも、誰なのか。
 会えるものなら会いたい。そして文句のひとつも言いたい。
 ヴィンセントは今、そんなことを考えている。
 なぜなら彼は「もてる時期」などいらないし(少なくとも今は)、 もてたくない(これも、少なくとも今は)と思っているからだ。





 昨日、告白をされた。
 独りで飲みたいときに行く店に、その「男」 ――なぜかヴィンセントは、女だけでなく男にも好かれてしまう――は現れた。 偶然を装い、彼はヴィンセントに微笑む。きっと、狙っていたのだろうに。
「こんばんは」
 知っている顔に、ヴィンセントは小さく低い声で、同じ言葉を返す。
 宝条の部下、というほどの側近ではなくとも、科学部門にいる男。 だが、科学者ではないだろう雰囲気だった。きっとデスクワーク専門なのだろう。 そう推察するヴィンセントの隣に、男は座る。
「タークスのヴィンセントさん、ですよね?」
 頷く無愛想な男に、彼はまた白い歯を見せて笑う。
「俺は、リーノっていいます。科学部門にいるんですよ」
「・・・知ってます。何度か、見ていますから」
 途端に、絵に描いたような好青年の顔は、ぱっと綻ぶ。 そうかぁ、俺のこと知ってたんだ、と、にこにこしながら、ビールを頼む。 見るからにアウトドア派の外見。しかし、肌は黒すぎず、それほど体育会系でもない。 そのあたりは、科学部門の社員らしいと、ヴィンセントは冷静に分析する。
 その後の話など、何も予測せずに。





 リーノは、なぜかヴィンセントによく話しかけた。
 ひとりで飲めばいいものを、と思うほど、ヴィンセントは他人を突き放した性格ではない。 相手の質問や話題に、言葉は少なくとも、丁寧に、律儀に答えを返す。
 しかしヴィンセントは、無趣味の男である。
 仕事のせいで、かつては何かしらあったのだろう趣味が、今では思い出せない。 休日を過ごすにも、趣味らしい趣味など行わないのだ。
 だが、リーノは粘り強く、優しい男だった。
「きっとあなたは献身的なひとだから、自分の時間がないんですね」
 歯が浮くようなことを、リーノは満面で笑みで言う。
 そんなことを宝条に言われたら、裏の裏の裏まで探ってしまうところだが、 彼はあくまで地であり、どこまでも悪気がないらしい。
 ヴィンセントは久しぶりに向けられた賛辞にどう反応して良いか解らず、ただグラスに視線を落とした。
「・・・私は別に、献身的などでは」
「献身的ですよ!いつも宝条さんの世話、してらっしゃるでしょう?」
 言われ、思わずヴィンセントは顔を上げてしまう。
 自分たちの関係について、彼は知らないのだ。
 それでも、そんなことを話すのは愚かな人間のすることだ。
 ヴィンセントは再び目を伏せる。
「あれは、彼が我が侭だから、仕方ないんです」
「謙虚ですね」
 また、そんな賛辞。
 ヴィンセントはいつもよりも自分が酔っていることに気付く。 忘れかけていた、というよりも、ないと思っていた自分の長所を、 このリーノという男は次々と掘り起こしては光にかざしてゆく。
 氷のようではない人間に、久しぶりに触れた気がする。
 それが、ヴィンセントの酔いを回らせていた。





 珍しく、目の前の世界が揺れている。
 それほど酔えるということは、ここ数年なかったのではないだろうか。
 火照った顔を夜気が撫でてゆくのが心地よい。黒いコートのポケットに手を入れたまま、彼は空に白い息を吐く。
 そんなヴィンセントの背後で、リーノはくっくと笑う。
「タークスのひとは、ザルだと思っていましたよ」
「・・・酔わないようにしているだけで、量を飲めば、酔います」
 面白みのない正論だと、ヴィンセントは自分で眉を寄せてしまう。彼にとっては数少ない、 「おともだち」になれそうな人に、もっと気の利いたことを言えないのが口惜しい。
 そしてまた無言になるヴィンセントの頬を、リーノの指が撫でる。
 いつもならば反射的に避けているところだったが、過度のアルコールのせいか、身体の反応は3秒ほど遅れてしまう。
 避けられても、リーノは笑うばかりだ。
「やっぱり、肌の白いひとが酔うのは、きれいですね」
 ヴィンセントは、ぼんやりとその言葉を咀嚼する。どこかで聞いたことがある言葉だ。
 そう、宝条によく言われるのだ。
 からかわれるように、耳元で囁かれる。
 酔った君はとてもきれいだ、とか、なんとか。
 ヴィンセントは、脳裏に浮かんでしまった男の姿を消すように、 左右にぶんぶんと首を振る。久しぶりにまともな人間と話して良い気分だったところに、 あんな男は精神衛生上良くない。
「ヴィンセントさん、もう一軒どうです?」
 相手の心中を何も悟っていないらしいリーノは、笑顔のままで反対側の通りを指差している。
 せっかく「あたらしいおともだち」が誘ってくれているのだから、と、彼は一瞬うなずきかけるが、 またもや現実的な問題が頭に浮かぶ。明日は早朝出勤だ。任務だからではない。宝条の早朝出勤につきあうためだ。
「申し訳ないが・・・、明日は早いから・・・」
「・・・どうしても、だめですか?」
 突然しぼんだような声を出され、ヴィンセントは酔ったままの目でぼんやりと彼を見上げる。
 リーノは、驚くほど、真剣な顔だった。
 今までとはうってかわって、険しい表情。
 ヴィンセントは咄嗟に、自分が「おともだち」に対して失礼なことを言ったのではないかと考える。 ここはもう一軒いくべきだったか。そんなに友達なんていないから、 よくわからないが、失礼だったのだろうか。そんなことを考えているヴィンセントは、唐突に強い腕に引き寄せられる。
「あなたを帰したくないんだ」
 まるで映画のような台詞に、ヴィンセントは言葉を失う。
 これは、言うなれば「今あなたとやりたくて仕方ない」ではないか。
 そう訳している間に、リーノは持ち前の性格なのか、酒のせいなのか解らないが、ただ情熱的な言葉を垂れ流す。
「ずっと前から、あなたに焦がれていたんです。もう、気が狂いそうになるぐらいで、だから、 今夜はあなたがよく行くと聞いていた店に、わざわざ来たんです」
 ヴィンセントは抱き締められたまま、何も言えない。
 こんな、直球すぎる言葉で告白されたのは初めてだった。
「俺はヒラで、あなたはタークスだから、身分が違うのも解っているんです。 でも、もう自分でもどうにもできなくて・・・」
 身分が違うだなんて、まるで昔の貴族のようである。
 だが、リーノという熱い男は、そんなこともお構いなしに、ヴィンセントに思いの丈をぶつけてゆく。
「今晩話してみて、確信しました。あなたを愛しているんです」
 締めは「愛している」。
 まさに、完璧なる予定調和の告白だ。
 日頃、100kmほど回り道をして愛を告げる男といると、リーノの告白は、 大河も樹海も一直線に抜けてくるほどの直球に感じてしまう。
 僅かに身体を離され、数センチだけ高い場所にある目が、ヴィンセントを熱っぽく見つめる。
 口唇を塞がれても、ヴィンセントは抵抗する気が湧かなかった。
 これで構わない、という感情が、彼の意識を押し流す。
 こうして、自分を愛していると叫ぶ男に抱かれるのも、構わない。
 それがなんだというのだ。


 一体、それがなんだと。






 アルコールがすっかり抜けた、早朝の身体。
 ヴィンセントは、二日酔いでもない頭を抱えざるを得ない。
 とんでもない過ちを犯してしまった自責の念が、彼を苛む。
 恋人がいるのに他の男と寝てしまったとか、そういう「罪悪感」の類ではない。 リーノという情熱的すぎる男と、一夜でも関係を持ってしまったということが宝条に知れたら、 という、「恐怖」と「狼狽」である。
 ヴィンセントが誰かに告白をされただけでも、反応の想像はつく。
 だが、それだけならば、まだ、いい。
 今回は違うのだ。あまりにも、違いすぎるのだ。
 ヴィンセントはどれだけ酔っても、眠る寸前までの記憶はきっちりと残っている性質の人間だ。 だからこそ昨夜、自分がいつもに比べてどれほどハイだったかも理解しているし、 行為の最中に、素面ではとても言えないようなことを口走っていたことも、記憶している。
 この世から、逃げ出してしまいたいほどの恐怖と、羞恥。
 それでも、出社はしなくてはならない。床に脱ぎ捨てられた制服に足を通してベルトを締めていると、 背後のベッドから、昨夜の腕が伸びる。
「もう行くんですか?」
「・・・仕事だ」
 電報のごとき短文で返事をし、ヴィンセントはその腕を払おうとする。
 だが、リーノは当然、それを許さない。
 昨夜の熱がまだ心と身体に残っているのか、ほとんど青ざめているヴィンセントの身体を、 自分のほうへと抱き寄せる。
 素早く口付けを避け、ヴィンセントはその腕から抜け出した。 昨夜があれだけ鈍かっただけに、アルコールがない身体というものは、 かくも素早く正しい判断ができるものかと、自分で驚くほどである。
「昨日はあんなに情熱的だったのに、仕事となるとクールになるんですね。そこもまた、魅力的ですけれど」
 ひとつ年下(らしい)のリーノは、状況を理解していない。
 ヴィンセントはシャツに袖を通しながら、「悪いんだが」と切り出す。
「・・・昨日のことは、忘れてくれ」
「・・・・・・どういうことですか」
「酒の勢いだった。・・・申し訳ないと思ってる」
 そう、本当に、申し訳ないと思っているのだ。
 あれだけストレートに、あれだけ情熱的に、あれほど狂おしく、 彼が自分への愛を告げてくれたのは、正直感動すらした。
 だが、それを受け取ることはできないのだ。
 できるだけ傷つけないように、ヴィンセントは言葉を選ぶ。
「君が嫌いだというわけではないんだ」
「なら、どうして!」
 リーノは身を起こし、再びヴィンセントの腕を掴む。
 だが、恋人がいるなどと、彼は言えない。
 そもそも、宝条という男が恋人だなどとは、思えないのだ。それは、もしかしたら矛盾なのかも、しれないが。
 未来に絶望したかのような彼を見ながら、ヴィンセントはぼんやりと、昨夜の言葉を思い出す。
『俺の名前、「亜麻色」っていう意味なんです。変でしょう?』
 リーノは、笑いながらそう言ったのだ。
 その時は、他愛もない話だと思った。
 だが今は、その言葉がどれほど幸福な響きだったか、理解できる。
「俺はあなたの恋人になりたいんです」
 食い下がるリーノの指を静かに外し、ヴィンセントはベッドの淵にあったネクタイを首にかける。
「まだ出社まで時間がある。休むといい」
 冷たくならないように、精一杯の努力をして、言ったつもりだった。
 だが、リーノはひたすら、打ちひしがれたように眉を寄せている。
 傷つけないで、対象を捕獲する任務のほうが、ずっと楽だ。
 そう、思わざるをえない。
 こうなってしまった以上、傷つけない方法など、ないのだから。





 冷凍室に入る瞬間を、思い出す。
 宝条がひとりでいるラボというのは、そのような場所だ。
 足を踏み入れた瞬間に、身体を包み込む冷気の感触と、匂い。
 身構え、身体が慣れるまでの数秒。
 それがいつもより、長いような気がする。
「遅刻だな」
「そんなはずはない。まだ、6時まで5分ある」
「君は約束をすると、いつも10分前にはくるだろう」
 温度のない言葉。
 徹夜していたのだろう、青ざめている口唇。
 神経質な細い指が、試験管を摘んでいる。
 いつもと変わらない男は、ほんとうに、いつもと変わらない。
 ひたすら冷たく、傲慢に、存在している。
 だがなぜか、ヴィンセントの胸には、こみ上げるものがあった。
「何をぼんやりしている?」
「・・・いや」
 コートを脱いだヴィンセントを、宝条はじっと見つめる。
 その視線に無意識に怯えながら、ヴィンセントは「なんだ」と問う。
「ネクタイが曲がっている」
「ああ・・・、急いでいたから」
「なぜ」
「遅刻しそうだったから」
 オイルランプで煙草に火をつけ、宝条は細い肩を竦める。
「・・・きみが?」
「私にも、そういう時はある」
「ふうん?」
 目を細めて、宝条は咥え煙草のままヴィンセントのネクタイをしゅっとほどき、 また、几帳面に結びなおしてゆく。いつもならば、ヴィンセントが彼にしてやることのほうが多いことだ。
 ほとんど衝動的に、ヴィンセントは宝条を抱き締める。
 全ての出来事から、逃げ出してしまいたかった。
 目尻ではなく、震える指先から、涙がこぼれそうだった。
 黙ったまま、宝条はそんな彼の肩甲骨に手を置く。
 しばらくの沈黙の後、ふたりはノックの音に、静かに身体を離した。





 情熱なんて、もしかして、厄介なものなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、ヴィンセントはリーノから目を逸らす。
 ラボに彼が現れたとき、彼は自分が悪いにも関わらず「もう勘弁してくれ」とすら思ってしまった。 が、リーノに罪はない。彼はヴィンセントと宝条の、曖昧で激しすぎる愛憎など、知る由もないのだから。
 ヴィンセントは、リーノをラボから無理矢理押し出し、自分もまた廊下に出る。 宝条のいる前で、とんでもないことを口走られたらどうしていいか、解らない。
 相変わらず、熱に浮かされたような瞳で、リーノは言った。
「・・・どうしても、納得ができないんです」
「そう言われても、困る」
「私が嫌いなわけではないんでしょう!?」
「・・・そうだ。いい友達になら、なれそうな気がする」
「なぜ恋人じゃだめなんです!」
 彼の切な言葉に、ヴィンセントは何も返事ができない。
 こうして曖昧にお茶を濁すような反応ばかりだから、リーノもまた、 綺麗に断ち切ることなど出来ないのだろうと、自分でも解している。
 それでもまだ、傷つけないように終わらせようとしている自分の甘さにも、腹が立つ。
 全ては空気に流されてしまったことからの罪悪だというのに。
「・・・君は、素晴らしい男だと、思う。君の恋人になれば、きっと、ものすごく誠実に、 傷つけられないで、愛してもらえると思う。でも・・・」
 だめなんだ。
「だから、なぜですか!なぜ俺じゃだめなんです!」
 足りないところがあるなら、言ってください!
 身を切るように、リーノはヴィンセントの肩に手を置き、告げる。
 それでもヴィンセントは、答えを出せない。
 言うことができない。
 単に「冷たくなってほしい」とか、「利己的になってほしい」とか、 「もっと排他的になってほしい」と言っても、それは意味がない。 それらの項目を全てクリアしても、それは宝条の「一部」、しかも「表面的な部分」をなぞっているだけに過ぎない。
 だから、そんなことは理由にはならないのだ。
 では、なぜリーノではだめなのか?
 要は、こういうことなのだ。
『宝条ではないから』





 結局、何も言えないまま、ヴィンセントはリーノを押し帰す形になってしまった。
 絶望的な背中を見送りながら、ヴィンセントは、ずる、と、ラボのドアに寄りかかってしゃがみ込む。
 彼が心の中で下した結論は、リーノにとって酷薄だった。だからこそ、 ヴィンセントはとても言うことなどできなかったわけだが、それは自分すらも打ちのめす。
 もしキーノが、冷たく、利己的で、排他的で、残酷な科学者になったとしよう。それでも、 ヴィンセントは彼を愛せない。
 それでは、外見もすっかり似てしまったら、どうだろうか。
 それでもだめなはずだ。
 では、クローンのように全く同じ外見と人格だったら?
「・・・ちがう」
 呟き、ヴィンセントは膝を抱える。
 そんなもの、ちがう。宝条じゃない。あいつじゃない。
 叫びだしそうにすらなる。
 狂おしいほど、宝条という男の、唯一無二さを感じてしまう。
 あの男が持つ雰囲気やオーラといった、目に見えないもの。 些細な言葉遣いや、笑い方や、癖。全てが、ヴィンセントを侵食している。
 そこまでの関係でありながら、なぜ自分たちは、「恋人」という言葉に当て嵌まらないのか?
 簡単なことだ。
 この定義に当て嵌まるほど、一義的な関係ではないのだ。





 昼休みの社員食堂。卵料理など嫌いなはずなのに、なぜか宝条はその日、オムライスを頼んでいた。
 黄色と赤と橙色の混じった食べものを見下ろした後に、ヴィンセントはもう1度宝条を見つめる。
 割り箸すら割らずに、見つめる。
 必死に、見つめる。
 言葉は喉まで競り上がっているのに、その中から選び出すことができない、もどかしさ。
 そんなヴィンセントに、宝条は表情ひとつ変えず、言う。
「情熱的な男だな」
 一体どこの生まれだろうな。
 そんな言葉が放たれてから、5秒ほどの間を置いてヴィンセントの口から出たのは、 言葉ではなく、「え?」という「音」だった。
「あれはリーノとかいう男だな。彼が君の、新しい恋人か?」
 背筋が凍える感覚とは裏腹に、宝条の言葉は穏やかですらある。
 気持ち悪かった。
 オムライスの形が、歪んで見える。黄色い皮膚と、橙色の肉と、そこから溢れる血のような物体に見える。
 頭の中では、いくつもの「why?」が浮かんでは消える。
「ちょっと暑苦しそうだな」
「でもまあ、話によれば真面目で律儀な男らしい」
「君とは対照的で、逆にいいんじゃないか?」
 そんな台詞を一方的に言いながら、宝条は笑みすら浮かべる。
 まるで、友人に新しい恋人が出来、そのことに対して肯定と賛成と祝福を送るときのような軽さすら、 そこには含まれていた。
 一体どうしてしまったというのだろうか。
 いつもならば、ヴィンセントが他の男の視線に晒されることすら嫌い、そ れを理由にして彼を苦しめるというのに。
 嫉妬という感情が、そこには微塵も感じられない。
 憎しみすらも、見えない。
 まるで、コンパスが壊れてしまったかのようだった。
 宝条は、手に持ったスプーンで、黄色い皮膚に血を伸ばす。
 何か言葉を待っても、出てきてはくれない。
 言ってほしかった。
「きみを殺したい」とか「相手を殺したい」とか「また拘束されたいのか」とか、 とにかく傲慢で冷たい言葉で、殴りつけてほしかった。
 このままでは、渦に飲まれてしまう。
「・・・宝条、私は確かに彼から告白されたが、断った」
「相手はまだ、未練があるようだったが?」
「それは・・・」
「彼とのセックスは良かったのか?」
「・・・・・・」
「さぞかし、あの情熱的な愛を感じただろう?」
「・・・宝条」
「君は幸福になる権利がある人間だからな」
「宝条!」
「だまれ!」
 叫び。
 瞬間的な荒業ですらあった。
 ふたりは同時に息を吐き、眉を寄せ、口唇を結ぶ。
 それほど同じことをしているのに、心の中は食い違う。
 言葉と感情のせめぎあい。
 あとは、愛と憎しみを取り戻すだけなのに。
 そのふたつが、なぜだろうか、見えない。





 だまれと言った瞬間の宝条こそが、彼の本質だった。
 突発的に自分の感情を抑制できなくなる男の、本質。
 だが、あそこで吐露されたものは、怒りや悔しさなどではなく、あまりにも透明で脆い、「哀しみ」だった。
 ヴィンセントは、宝条の持つ弱さを知っている。
 きみは、こうふくになるけんりがある、にんげんだから、な?
 ふざけている。
 それならお前は、それがないとでも言うのか。
 神などいないと、いつもおまえは呟く。
 ならばなぜ、「神に選ばれなかったひとり」のような素振りするのだ。
 なぜ、愛される価値などないと、全てを振り切ろうとするのか。
 なぜ、私の感情すらも、打ち捨ててゆこうとするのか。
 なぜ、なぜ、なぜ。
 もっと傲慢に、私を束縛しようとしないのか。





 私は、それを望み、覚悟を決めたというのに。
 いや、むしろほとんど引きずられるように、そうなったというのに。





 ブラインドを開くと、そこには珍しく月が浮かんだ夜空。満月だからだろうか、 久しぶりに月明かりを見た気がする。
 まるで、心の中に舞っていた砂埃が、雨によって地に落ち着くような静けさと落ち着きが、 ヴィンセントの心を満たした。
冷たくなったコーヒーにたっぷりと牛乳を注ぎ、ジャケットを脱ぎ、新しい煙草に火をつけて、 少しだけ窓を開ける。
 昨夜と同じ夜気が流れ込むが、今夜は冷たく感じる。
 それはそうだ。今夜は、酔ってなどいない。
 正しい判断を、正しい心で、正しい動作で、することができる。
 あまりに秩序だった自分の心に、ヴィンセントは微笑む。
 優しく、慈愛に満ちた聖母のように、微笑む。
 微笑む。
 ソファで仮眠をとっている宝条を見下ろし、ヴィンセントは赤い目をゆっくりと伏せた。 ソファに肩膝を置き、耳朶に触れると、なぜか温かく感じる。それはきっと、自分の指がとても冷たかったからだろう。
 細い顎、細い首、細い頚動脈。
 昨夜、別の男の背中にまわした両手を、そこにかける。
 このまま体重をかければ、きっと、彼は理解してくれるだろう。
 どれほど自分が、彼を憎み、そして愛しているかということを。
 冷たい指が喉に食い込み、宝条が薄く目を開き、その腕を誰かに取り押さえられるのは、ほぼ同時であった。
「ヴィンセントさん!何をしているんですか!」
「・・・リーノ」
 自分の腕を掴んでいる男の名を呼んだはずが、それはほとんど掠れて、自分ですらも聞き取れない。
「なんで、こんなこと・・・、一体どうしたんですか!?」
 情熱的な男は、問い詰めるときも情熱的らしい。
 真剣な表情で、今にも「ケンカでもしたんですか?」とか「悩みがあるなら俺に相談してください」 などと言い出さんばかりだ。
 その日、リーノの指を外すのは、2度目だった。
 黙って、静かにその指から逃れ、身体の下にいる宝条を見下ろす。
 そこに横たわる男は、ただ静かに、笑みを浮かべていた。
「なぜ泣く?」
「・・・え」
 ヴィンセントはその時初めて、頬に伝う液体の存在に気付く。
 涙など、一体何年ぶりだろうか。
「ここで泣くのは、私じゃないのか?」
 寝ているすきに殺されそうになるなんてな。
 とんでもない男を飼ってしまったものだ。
 そんな、毒。
 まるで、涙と同じほど数年ぶりに、毒を吐かれた気がする。
 ヴィンセントは手のひらで涙を拭った。
「・・・だまれ、死に損ない」
 それは、彼にとって精一杯の虚勢で、同時に本音だった。
「あの・・・、宝条さんは、大丈夫なんですか?」
 問われ、宝条は「まだいたのか」というような顔をして身を起こす。 まるでリーノの存在など気にもとめていなかったかのように。
「私は『まだ』この男に殺されるわけにはいかないんだよ」
 そんなことより、
「おまえ」
 リーノを遠慮もなく指さし、宝条は冷たく目を細める。
 つまらないことで宝条を頼る部下に、うんざりしている時の顔だ。
「ヴィンセントが甚振られるのを見たくないか、自分が死にたくなかったら、ひとの所有物に勝手に手を出すんじゃない」
 わかったのか?
「・・・・・・、・・・・・・・、え?」
「もういい、邪魔だ。出ていけ」
「え、あの、どういうことですか?」
 話の流れを理解していないリーノは、情熱的ではあるが、このような事態と関係に免疫がないらしい。
 宝条は呆れたようにヴィンセントを見上げ、横柄に腕を組む。
「なんだ、きみは何も説明していないのか」
「・・・説明のしようがなかった」
「恋人がいる、の一言で済む話だろう」
「そんな一義的な言葉・・・」
「一義的だろうが何義的だろうが、実際にそういうものなのだから、 仕方ないだろう。・・・まったく、そうして曖昧に言葉を濁していたのか」
 呆れている宝条を睨みながらも、ヴィンセントは反論できない。
 だが、そこで最も言葉を失ったのは、リーノである。
 彼はここにきて「本当の」失恋というものを味わった。
 リーノは、真面目で、誠実で、実直な男である。
 恋愛をするということは、イコール「ひたすら愛する」としか、頭にないのだ。 極限まで追い込まれて、相手の首に手をかけてしまう感情など、理解できる人間ではない。
 人の目には見えない、それでも互いを繋ぐ、絶対的なふたつの力。
 そのひとつを知らないリーノは、良い意味で、幸福だった。






 甘い言葉で言うならば、溶けるような口付けだった。
 まるで、がらではないと笑ってしまいそうになるような。
 だが今のヴィンセントには、それより大切なことがある。
 目の前の男に、「おまえしかいないのだ」という愛を知らしめなければならないのだから。
 あの絶望を、なんと言ったらいいだろうか。
 殺したいほど憎いにも関わらず、この男でなければだめなのだと気付いた瞬間の、その、絶望。
 自分に輝ける未来などない気がした。
 たとえそこに愛が溢れていても、きっと足元は、泥沼だ。
 それでもヴィンセントは、その道を選んでしまった。
 だが、今はもう、それでも構わないと思う。
 それがなんだというのだ。





 一体、それがなんだと。











 みっちり1日使って書きました。 途中で音楽を変えるのも忘れるぐらい、瞬発力と勢いだけで書いた気がします。
 おかげで、「HB」を越える長さになってしまったので、いくつかに区切ろうと思ったのですが、 流れが損なわれるのは嫌だったので、そのままにしておきました。すみません。

 Linoは、スペイン語で「亜麻色」です。

 このお話は、孤徹さんに捧げます。


2006.03.18







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