鍵盤の夢































 どこからともなく、ピアノの音が聴こえ、私はを瞳を開けた。薄暗い部屋の中で、 ナイトスタンドだけが淡い光を漏らしている。ベッドから抜け出し、制服を軽く羽織ると、 ピアノの部屋へと私は向かった。
 この曲を、私は知っている。
 ピアノだけではない。ヴァイオリンの切ない音色が混じっている。
 やるせないほどの憂愁と寂寞の音が、屋敷の中に響いていた。
 朝であるにも関わらず、廊下に射す光は物悲しげだった。
 ピアノの部屋には、2人の男がいた。一般社員なのだろう。知らない顔だ。2人は、 何も見えていないかのように、音楽を奏で続ける。
 ヴィンセントは、身体を翻した。
 物悲しい短調の音が、心を追いかけてくる。





 廊下に響く足音が、悲哀の陰をそこに映した。
 研究室に、宝条はいた。ソファに横になり、薄く開いた瞳が天井を見上げている。彼の 耳に届いているのは、この切ないヴァイオリンソナタなのだろう。
 瞳を上げて、彼は私を見止めた。
「素晴らしいと思わないか?」
「・・・この曲は・・・」
「ヴァイオリンソナタ・・・」
「知っているのか?」
「この悲しさを・・・初めて知ったときから虜なんだ」
 宝条は身を起こして私に手を伸ばす。
 悲しくも激しいメロディーが、遠くから響く。
 私は、宝条の手を握って、隣に座った。
 宝条は身体を寝かせ、私の膝に頭を乗せた。
 白い白衣は、私の黒い服と屋敷の影の中で、悲しいほどに白く、純潔な佇まいを示していた。
 着るべき人間が黒くとも、この色だけは変わらない。
 漆黒の髪の毛を指で梳きながら、私は目を閉じて流れ続けるヴァイオリンソナタに 耳を傾けた。
「・・・宝条、私たちの道は・・・、鍵盤なのだろうな」
 薄目を開けて、宝条は笑う。
「どうして・・・?」
「一生、交わることもなく、平行なまま、どこまでも続く、鍵盤」
 その、覆せない悲しみを、ヴィンセントは知っている。
 白鍵を黒鍵にすることもできず、黒鍵を白鍵にすることもできない。
 揺るぎない、正しい位置。
「それが・・・私たちの色だと、思わないか?」
「・・・そうかもしれないね」
 宝条は私の手を握り、口付ける。
「君は黒い服を着て、私は白衣を着る。・・・でも、本当は君が白で、 私が黒なのではないかな、と思うんだ」
「宝条・・・」
 指に触れる口唇の温もりが、今は切ないばかりだった。
「でもね、ヴィンセント・・・」
 宝条は身体を起こして、私を見つめた。
「その物悲しい鍵盤が、この音楽を奏でるなら・・・、それもまた、必然から くる美しさだと、私は思うんだよ・・・」
 狂気の欠片すら、この音楽には存在していない。
 ただ、苦悩と悲哀だけを切々と繋ぐ音符。
 宝条の口唇が、私の口唇に触れる。
 この身体を切り刻んで、鍵盤を作ることができるなら、私は、白鍵になろう。そこに 滲む、痛ましいほどの黒と、全てを語るように。
 交わされる口付けの背後に、ヴァイオリンソナタは流れ続ける。
 私たちの痛みと悲しいほどの愛を、そこに彩りながら。
 暗い屋敷の中で、狂おしいほどに互いを想う、その色を。







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 知っている方もたくさんいると思うのですが、モーツァルト、ヴァイオリンソナタ 作品28番 ホ短調 作品 304の第二楽章です。
 この曲ほど、この2人と神羅屋敷の雰囲気を映し出している曲もないと思っていましました。 あの陰鬱とした雰囲気、湿ったような埃っぽいような、淡く霞んだ色の場所。 そこで互いに決別の運命を辿ると知っていても愛し合う2人。
 狂気、というものを私の宝ヴィンから取っ払うと、こういう話ができるのか・・・と 思いました。

「鍵盤の夢」は、以前書いた全然違う宝ヴィン小説を書き直したものです。しばらく 消したままにしてあったので、新しくしてみました。


2005.08.10 修正






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