ああ、







 嘆息の言葉を、彼女は知らない。
 ただ、息だけで、言うしかない。





「ああ、もう!」
 その声に、レノは反射的に顔を上げる。
 次に飛んでくる言葉は、説教だろう。
「レノ先輩!?」
 きた、と、レノは笑う。
 彼女がその言葉を言うのは、彼に対してのみであった。
 それ以外は、不満の言葉を口にする女ではない。
「私のカップ、勝手に使わないでくださいよ!」
「だってそれ、2つあるからいいだろ、と」
「それは予備です!ひとつ漂白するときの!」
「別に漂白しなくてもいいじゃねぇか」
「私、茶渋って嫌いなんです」
「なら、黒いっぽいカップ使えよ、と」
「私は白がいいんです!」
「どこのお嬢様だよ、と」
 苛々したように、イリーナは踵を返し、シンクに立つ。
 白いカップが、手に握られていた。
「ああ、もう!」
 また同じことを言い、蛇口をひねる。
 勢いよく流れる水のせいで、その後に彼女が呟いていた文句は、レノの耳には届かなかった。





 音のない瞬きを繰り返しながら、イリーナは手袋を外した。
 レノはその動きを、じっと見つめている。
 足元に倒れている男は、暗い天空を見上げていた。もう、心臓は動いていないだろう。それでも、 彼女は最後の仕事をしなくてはならなかった。
 手袋を外し、素手で男の首筋に触れる。
 まだ、体温は残っているはずだ。
 それが、死体だとしても。
「・・・どうだ」
「・・・・・・ありません」
「よし、帰るぞ、と」
 レノは彼女が立ち上がるのを待たずに、路地を歩き出す。
 時刻は、もう夜中と言われる頃だろう。
「飯でも食って帰るか、と」
「・・・仕事のあと、私が食べられないの、知ってるでしょう」
「そうだったっけな、と」
 薄く笑い、男はイリーナを覗き込む。
 月明かりのせいで青白く見える顔は、笑っていない。
 イリーナは握っていた手袋を路地の隅に投げ捨てた。
 口唇が薄く開かれ、嘆息の息が漏れる。
 ああ、と、レノには聴こえた。
 勿論、彼女は音になどしていなかったけれど。





 その最中に話しかけられることを、彼女は嫌っていた。
 それでも、男は話しかける。
「なぁ」
「・・・・・・なんです、か」
「今日は言わないのか」
「なにを・・・ですか?」
 イリーナは目を閉じたまま問い返す。
 できることならば、会話をしたくなかった。
 自分は必死で、相手は余裕だ。冷静に、こんなあられもない自分を観察されているようで、 それが嫌でたまらない。 だから。
「おまえ、いつも同じこと言うけど、俺はやってる時のが1番好きだぞ、と」
「・・・だから、・・・何がですか・・・?」
 笑うだけで、男は答えようとしない。
 イリーナは薄く目を開き、下口唇を噛んだ。
 ただ言いたいだけのことならば、最初から口にしなければいいのに。
 私は、今のこの状況に、必死だから。
「・・・ああ・・・」





 ああ。


 そう言ったとき、確かに、男は笑った。





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2005.02.25





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