B C P

 





遣らずの雨






 時折、この人は天と繋がっているのではないかと、思った。



 その日の晩、イリーナは1人、バーのカウンターにいた。
 数分後にはレノが来る。この雨の中、きっと傘も差さずに来るだろう。大した 雨ではなかったと言って、大きく頭を振り、水を払う。そんな仕草が、彼女には 想像できた。
 先週買ったばかりの白いスカートに、同じく買ったばかりの華奢なパンプス。視線を落として、 それらを確かめる。
 彼はそんなもの、見ないだろうけれど。
 機械的な着信音に、イリーナは携帯電話を開く。レノだ。
「はい、イリーナです」
『俺だけど』
「今どこですか?」
『いつものカフェの前通った。それで・・・』
「・・・先輩?」
 声が途切れる。
 イリーナは眉を寄せ、片耳を手で塞ぎ、じっと耳を澄ませる。
 雨の音。罵声。何かが倒れる音。そして、・・・レノの呻き声。
「・・・せ・・・」
 背筋に、冷たい汗が流れる。
「先輩!レノ先輩!!」
 携帯を握り締めて声を張り上げるが、返事はなく、ただ、何が起こっているのか解らぬ 音ばかりが耳に届く。そして、ぐしゃりという音とともに、電話は切れた。
 イリーナはスツールから滑り降りてハンドバッグを掴む。財布から札を数枚出して バーテンダーに押し付けると、降りしきる雨の中、駆け出した。



 いつものカフェなら、歩いて5分程度だ。走れば、もっと早く着く。
 イリーナは人ごみを掻き分けて走り続ける。だが、新しいパンプスのせいか、踵がひどく痛み始めた。
「もう・・・、こんなときに・・・!」
 往来で立ち止まり、イリーナはパンプスを脱ぐ。
 それが新しいとか、雨の中裸足で走るとか、そんなこと。
「どうだっていいわよ、もう・・・!」
 再び駆け出したイリーナを見て、人々は振り向く。驚く者、珍しそうに眉を顰める者、 くすくすと笑う者。
 だが、それらのものが彼女の足を止めることはない。
 人目すら跳ね除ける強い力が、彼女を突き動かしていた。



「はぁ・・・、・・・はっ・・・、」
 肩で息をしながら、イリーナはその人だかりに歩み寄る。
 人垣を掻き分けて、やっと辿り着いたその先に、レノはいた。
 3人の男が、罵声を吐き散らしながらレノを殴り続けている。一人が持っているのは スタンガンだ。レノが反撃もできずにいるのは、そのせいだった。
「先輩!!!」
 イリーナの絶叫に、男たちは振り向く。
 だが、彼らの1人は振り向くと同時に顔面に正拳を食らっていた。スタンガンを持っていた 男は、身体をひねった姿勢のまま崩れ落ちる。鼻血が出ていた。
「なっ・・・、なんだお前!見物人なら引っ込んでろ!」
「うるさいわね!殺すわよ!!」
 彼女の気迫に、2人の男は射抜かれたように動かない。
「ここに倒れてる奴を連れて、さっさと消えて!」
 イリーナはそこまで言うと、顔を歪ませた。涙が出るのを堪えるように、 下口唇を噛み締めたまま男を睨む。
 2人は言われたまま、男を抱え上げてその場を引き下がった。同時に、 その人だかりもぱらぱらと散ってゆく。
 残されたイリーナは、パンプスを投げ捨てて地面に膝をついた。



「・・・いてぇぞ、と」
「我慢してください。止血、してますから」
 額から滴る水滴を、彼女は手の甲で拭う。それだけでは足りずに、目元も拭ったが、 まだ視界はぼやけたままだ。
 涙ばかりが、とめどなく彼女の頬を濡らす。
「左腕、切られてますから、ちゃんと止血しないと・・・」
 レノの制服の袖をまくり、ナイフで切られた場所にハンカチをきつく巻きつける。レノは 眉ひとつ動かさずに、その動きを見ていた。
「・・・イリーナ」
「はい」
「・・・なんで泣くんだ、と」
「泣いて、いませんよ」
「・・・・・・」
「雨です」
「・・・・・・・・・泣くな」
「・・・泣いて、いませんってば」
 ハンカチの裾を縛り、イリーナはハンドバッグから絆創膏を取り出す。ブラウスの 袖で、切れたレノの口唇を拭う。そこに滲み込んだ血は、雨のせいですぐにぼんやりと滲んだ。
 イリーナは、濡れているせいでうまく貼れない絆創膏を貼ると、地面に座り込み、 再び顔を拭った。
 レノの手が、冷たい頬に触れる。
「あいつら、仲間を俺にやられたことがあるらしいぞ、と」
「・・・報復ですか」
「こんなの、しょっちゅうだ」
「・・・・・・」
 黙ったまま、イリーナはひとつ、鼻をすする。また溢れそうになる涙を、 必死で堪えようとしていた。
 そんな彼女、レノが覗き込む。
「俺が死ぬとでも思ったのかな、と」
「なっ・・・、茶化さないでください!」
 レノは傷ついているにも関わらず、いつものように笑う。
「ほ、本当に怖かったんですから・・・」
「だから、靴も脱いで走ってきたのか」
「・・・はい」
 レノは指先でそのパンプスを拾い上げてまじまじと見る。先刻イリーナが 投げ捨てた勢いで、片方のヒールが折れてしまっている。
「これじゃ、履いて帰れないぞ、と」
「・・・先輩だって、しばらく動けないでしょう」
「まあ、この雨の中歩くのも面倒だしな、と」
 2人は同時に空を見上げる。暗い空の芯から、雨は途切れることなく2人の上に降り注ぐ。 立ち往生する2人に、しばらく休めと言わんばかりに、延々と。
「・・・ま、とりあえず、しばらくこうしてるかな、と」
 レノの腕が、途方にくれた顔のイリーナを抱き寄せる。
 後輩は慌てて身体を離そうとした。
「せ、先輩、恥ずかしいですよ・・・!こんな人通りの多い場所で・・・」
「だってお前、寒いだろ。上着どうしたんだ、と」
「あっ・・・、バーに忘れてました・・・!」
 にやりと笑うレノの腕に、力がこもる。
 イリーナは抵抗することを諦めて、再び空を見上げた。





 時折、この人は天と繋がっているのではないかと、思う。
 彼が願えば、この雨はいつまでも降り続くのではないかと。





 ならば、もう一時、休息の慈雨を。


 


-----------------------------------------


 リクエストをくださった矢崎 麻さまへ。

 雨の中濡れる切ないレノイリ、ということでリクエストを受けたのですが、 切なさが少々足りないでしょうか…!?アワワ。すいません。

 イリーナちゃんに「殺すわよ!!」と言わせられて嬉しかったです。
 しかし、今回はレノさんが薄いなぁ…笑



2004.12.31





inserted by FC2 system