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動悸






「すいません、急に遅刻してしまって・・・」
 イリーナはネクタイを直しながらオフィスに入る。
 ツォンは顔を上げずに、目だけで彼女を見た。
「構わん。今日は急ぎの仕事もないからな」
「ありがとうございます」
 彼に一礼をすると、イリーナはデスクについた。
 正面にいるレノが、頬杖をついたまま彼女を見つめる。
「珍しいな、と」
「・・・はい?」
「急に遅刻なんて」
「ああ・・・そうですね」
 そのまま、彼女は目を伏せる。会話は続かない。
 時刻はもう、昼前になっていた。



「なんで急に?」
 昼休み。
 オフィスに残されたイリーナに、レノが問う。
 イリーナはお弁当の中身をフォークでつつきながら、目だけを上げる。ブロッコリーを フォークに刺したまま、彼女は笑った。
「ただ、病院に行ってきただけですよ」
「・・・病院?」
 レノは眉間に皺を寄せる。
「具合でも悪いのか、と」
「いえ。ちょっと」
「・・・ちょっとってなんだよ」
「別に、どうだっていいじゃないですか」
 イリーナは語気を強めて、レノを睨む。
 だが、レノも簡単には引き下がれない。
「隠してんのか、と」
「そ、そんなんじゃありませんっ!」
「じゃあ・・・」
「産婦人科です!」
 イリーナは俯いたまま、吐き捨てるように言った。
 レノの追撃の手が止まる。
 僅かな沈黙の後、レノは微かに息をついた。その音が、イリーナの耳にも届く。彼女は マグカップに震える手を伸ばした。
「・・・な、なんで黙るんですか?」
「びびったぞ、と」
「・・・・・・」
 レノは背もたれに身体を沈める。
 椅子が軋んだ。
 イリーナは、訊かれてもいない言葉を継ぎ足す。
「に、妊娠じゃ、ないんです。いつもピルを使ってて、それが切れてたから・・・、貰いに行ったんです。 それだけです」
「・・・・・・」
 レノは、まだ何も言わない。
 彼女は席を立ち、シンクまで歩き、コーヒーをカップに注ぐ。
 そうしながら、さらに言葉を捜す。
「こ、この間、ピルが切れてた日が一週間ぐらいあって、その時にレノ先輩と会ったり してたから・・・、もしかしたらって思って、ついでに検査もしましたけど」
 カップを持ったまま、彼女はオフィスを歩き回る。
 喋りながら、空いているほうの手が無意味に動く。その素振りで何を 現したいわけでもない。だが、彼女は手を動かした。
「だけど、別に何もなかったんですよ?子供もいなかったし、それでちょっと安心 しましたけど、・・・だから、それだけですよ」
 そこまで言うと、イリーナはやっと椅子に座った。
 最後のほうは早口になり、自分でも何を言っているのか解らなかった。
 レノの言葉が、怖かった。



「・・・安心、したのか、と」
「え・・・」
「本当に安心だったのか、と」
 レノはあまりにまっすぐ、彼女を見つめた。
 イリーナは、デスクの上で両手を握り締めた。
「・・・わ、わかり、ません・・・」
 僅かな空虚感。
 それがなかったといえば、嘘になる。
 だが、それをレノに伝える言葉を、彼女は持ち得なかった。
「先輩は、わかるんですか・・・」
 レノの手が、後頭部を掻く。
「・・・たぶん、お前と同じだぞ、と」



 だから、わからない。
 わかっちゃいけない気が、する。



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 タークス内は、妊娠とか結婚とか、そういうのから隔絶されている気がする。レノさんは特に。 そういう、曖昧な立場の2人。
 レノさんは、 子供がいなかった、という結果で、簡単に「良かった」とかって口にする人ではないと思う。 そこまで、イリーナに残酷じゃない気がする。



2004.11.02





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