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君が願う場所に行こうと決めた






 気付くと俺は、綺麗な洋間に見知らぬ男といた。
 柔らかなソファ、白いクロスのかかったテーブル。
 目の前に座っている男は、コーヒーを一口すすって笑う。
 嫌味のない笑顔に、俺は戸惑う。
「家内はもうすぐ来ますから」
「・・・お忙しいなら、いいんです」
 俺は席を立とうとしたが、男は腰を浮かせてそれを制する。
「そんな、家内の先輩をただ帰すわけにはいきません」
 男は俺の肩に触れて再びソファに座らせると、立ち上がって手入れの行き届いた 庭を覗いた。
「買い物ぐらい行くときかないんです。あの身体だと心配なんですが」
 白い歯を見せて、男は困ったように笑う。
 つられて俺も笑った。
 庭にある小さなブランコを見つめて、俺は思い出した。


 そうだ。ここは、イリーナとその夫の新居。


「先輩、来てくださったんですか」
 部屋に入ってきたイリーナは、身重の身体を大儀そうに傾けて俺に 頭を下げた。
 彼女が座ると、男は毛糸のひざ掛けを彼女の膝にかけた。
「イリーナ、無理はしてないだろうね」
「平気よ。すぐそこだもの」
 目の前にある不思議な光景を、俺は射るように見つめた。
「・・・何ヶ月なんだ?」
「8ヶ月です。順調なんですよ」
「もう、性別はわかってんのかな、と」
「わかるんですけど、彼が生まれた時の楽しみにとっておきたいっていうから、 調べてないんですよ」
 隣に座っている男が、照れるように笑う。
「見てください。彼がブランコまで作ってくれたんです」
 俺は、視線を庭にうつした。
 先刻の小さなブランコが風に揺れている。
「元気そうで、良かったぞ、と」
「先輩、どうして今日はここに?」
「仕事で、近くを通りかかったからな、と」
「大変ですね。でも少しだけ、羨ましいです」
 イリーナは懐古的な表情で微笑む。
「任務とか、懐かしいです」
「・・・お前はもう、倖せに生きればいいさ」
「そうですね・・・ありがとうございます」
 穏やかな天候の場所と、希望に満ち溢れた家。心優しい旦那と、可愛い子供と、 幸福な家庭を築けばいい。



 築けばいい。





 ***





 息が、止まるかと思った。
 ひどい寝汗が気持ち悪く、俺はTシャツを床に脱ぎ捨てる。
 自分がひどく苛つき、動揺していることがわかる。
「・・・先輩?」
 隣に眠っていた白い身体が、半身を起こした。
「起こしちまったかな、と」
「いえ・・・、いいんです」
 透き通るような裸体を見るその瞬間に、先刻までの夢がフィードバックをしてくる。
 既に特徴すら憶えていないような、あの夫。
 あんな冴えない、優しくて日曜大工が趣味の男が、この身体を抱いて子供を儲けて・・・、 そして倖せに暮らすというのか?
 言いようのないむかつきに、俺は煙草を手にとる。
 イリーナは身体を起こしたまま、隣の俺をじっと見詰めている。
「先輩、少し話していいですか?」
「・・・あ?」
 膝を抱え、その上に頭を乗せて、彼女は俺を見た。
 白い頬に、涙が流れていた。
「ひどい夢を見たんです」
「・・・どんな」
「先輩が、とても綺麗で優しい女の人と結婚をするんです。私が2人の家を訪ねたら、 もうすぐ子供が生まれるんだって、先輩が言うんです。幸福そうに、笑うんです」
 イリーナの声が震えた。
 俺は、煙草の灰がシーツに落ちることにも気付かなかった。
「どうしよう。私、先輩が倖せになるのを願えなかった」
 嗚咽が声に混じる。
 切実な哀しみが、俺の神経を締め上げた。
「倖せになってくださいって、口では言っていたのに、心の中では嫌で嫌で仕方なかった。 そんなの絶対に嫌だった・・・!」
 俺はその身体を抱き寄せた。
 慰めなんかではない。そうしなければ、俺すらも引きずり込まれる気がしただけだ。 抗えぬ不安と、確信のない未来に。
 先輩、と、呼び続けるイリーナに、俺は囁いた。
「・・・泣く必要なんかないぞ、・・・と」
「だって・・・、私、・・・ひどい女です・・・」
 ひどくなどない。
 なぜなら、
「そんな幸福、願う必要ないからな」


 だから俺は、あの夢の中にいたお前の幸福など、想いはしない。


 お前も、願うなら、もっと自己満足で我儘なことを願えばいい。
 俺にしがみついて、縛り付けて、自分を愛せと。


 その願いなら、きいてやる。



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 人の幸福を願えない自分に対する絶望。
 嫉妬は我儘なのだと勘違いしてしまう自分。
 でも幸福を願うことが、裏切りの時も、ある。



2004.10.20





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