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そういう名前の逃亡






 あの人はとても奔放な人。
 自分を偽ったりなんかしないけれど、だからといって お世辞を言ったりもしない。そんな、不器用さにも似た残酷さで、いつも私を傷つける。
 内面から擦り取っていくように、少しづつ。
 痛みも感じないほど僅かに。
 泣き叫んで罵ってやりたいほどに優しい顔を時たま見せて、同時に私を締め上げてゆく。そんな 器用なことをするから、だから、痛みを忘れていたんだ。
 思い出してみて。
 あの人は、とても残酷。
 牙を見せないで、爪をちらつかせる。
 威嚇しながら、手を差し伸べる。
 そんなことが許されるの?
 そんなことが、まかり通っていいの?



「疲れているのか?」
「え・・・」
 顔を上げると、そこにはルード先輩の姿。
 私は、返答に詰まった。
 気遣ってもらうということを、しばらく忘れていたから。
「顔色が、良くないようだ」
「いえ、平気です。大丈夫です」
 そう続けて、私は笑う。
 きっと乾いて、ひびすら入りそうな笑顔だったろう。
 ルード先輩の口唇が僅かに動く。ほんの少しだけのその動きが、 彼が何かを言おうとしている時の状態なのだと、今なら解る。
「無理するな」
 その言葉を受け取った時、見えないはずのサングラスの奥の瞳が、私には見えた気がした。それほど 私は、ルード先輩を凝視していた。
 その大きな身体と、腕に、縋りたい気持ちが沸き起こる。
 一瞬にして、私をどこかへと持ち上げる。
 いや、持ち上がってきたのは、大粒の涙たちだっただろうか?



 傷つけられることに、疲れたんです。
 もう疲れて、歩けないんです。
 でもどうして、歩こうとしてしまうんでしょうか。
 それすらも、わからないんです。
 わからないんです。



 気付くと私は、そんなことを言っていた。
 泣きながら、そんなことを、彼に。
 ハンカチを出すことすらもどかしく、私は袖で目元を拭う。それでも 溢れるものを、止める術がなかった。
 ルード先輩が、濃紺のハンカチを私に差し出す。
 私はそれを受け取らなかった。
 差し出されたハンカチなど、手に取らなかった。
 私が握ったのは、先輩の、その大きな手。
 ほんの一瞬。
 先輩の親指が微かに動く。
 私は、サングラスの奥を見つめた。
 その奥にある瞳もまた、私を見つめている。
「・・・私」
 息が続かなくて、私はひとつ、呼吸をする。
「私・・・、ルード先輩を好きになれば良かった」
 先輩のような、優しい人を。
 黙って手を差し伸べて、無意味に私を傷つけたりなんかしない、そんな 人を。



 私の涙が止まった数分後、ルード先輩は左手で、自分の右手を握っている私の指を 外した。
 その動きがあまりに静かで、穏やかで、・・・、
 私は、自分の行動と、言葉の意味を知った。
 レノ先輩なんかとは比べ物にならないほど、残酷な意味を。



 謝罪の言葉すらでてこない、長い沈黙。



 私は、自分を傷つけられている人間だと思っていた。
 でも、ちがった。
 少なくともこの数分間で、私は多くのものを傷つけた。
 レノ先輩も、ルード先輩も、そして自分自身も。



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 レノにものすごく傷つけられたあとのイリーナ。
 ルードに対しての甘え。
 無神経に、単純に、逃げようとする心。
 それを戒める、ルードの無言。
 幸福な話ではないけれど、男女問わずこういうことをして、無意識に他人を 傷つけている人はたくさんいるだろう、と思います。



2004.10.20





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