B C P

 





Blitz






 血まみれの腕。
 顔にも腕にも、まるで血のりをつけているかのように、嘘のように、 彼は真っ赤な姿で時たま帰ってきた。
「任務、完了しました」
 低い声。
 ルードは黙ってサングラスを押し上げる。
「ご苦労だった」
 この仕事の終了後、報告書が書かれることはない。なぜなら、裏の世界だけで 通用する言葉で、彼らは会話をしただけだから。なんてことはない。 そしてレノとルードはその口論に打ち勝っただけ。
 黒いスーツが血を吸い込んで、嫌な色になっている。黒でもなく、赤でもない、 中途半端なその布からは、きつい鉄の香りがした。
「その格好でここまできたのか」
「・・・水道がなくて」
 ルードがジャケットを脱ぎながら頭を下げる。
 サングラスの縁にも、赤い液体がついていた。
「イリーナ」
「は、はい」
 突然呼ばれ、イリーナは肩を震わせる。
「・・・タオル、ないか」
「あります。濡らしますね・・・」
 棚から新品のタオルを何枚も取り出し、お湯で濡らし、きつく絞る。
 こんなことを彼女はもう何度しただろう?
 差し出されたそれを、レノは無言で受け取る。
 こんな状態で帰ってきたレノは、無口で眼から不可視の鋭い光を放っている。イリーナは 彼が怖いというよりも、そんな状態になってから立ち昇るオーラに怯えていた。
 タオルで顔、手などを拭くと、ジャケットを脱ぐ。
「ツォンさん、新しいジャケット入ってますか?」
「ああ、明日には入る予定だ」
 二人は、ジャケットとタオルを丸めて、部屋の片隅にあったゴミ箱に投げ捨てる。理由は簡単だった。 血は、洗っても落ちない。匂いも染み付く。殺した相手と、いつも生活を 共にすることなど、できるはずがなかった。



「ごはん、どうしますか?」
 久しぶりの、一緒の帰り道だった。だが、イリーナもレノも、 言葉を発しないまま街を歩いた。
「今日はいいぞ、と」
 レノはイリーナの眼を見ない。俯き加減で歩く。
 だが、それはどうすることもできなかった。明日、新しいジャケットを着るまで、 レノこの調子が続くというのがイリーナにはわかっていた。
「先輩、前・・・」
 そう言ったときにはもう遅かった。
 どう見ても堅気ではなさそうな男の肩と、レノの細い肩がぶつかる。当然、その男と連れの 男は立ち止まって振り向いた。
「おい、兄さん」
 イリーナは慌ててレノの腕を掴む。
 だが、既に時遅し。
「・・・あ?」
 大柄の男が、レノの肩を掴んだまま、路地裏に向かおうとする。
「ま、待ってください、先輩いま普通じゃなくて・・・」
 普通ではない。
 そう。人を殺した腕が、まだ身体に残っている。それが、いつもよりも鋭い 殺気を体内に留めているのだ。
「お姉ちゃんは黙ってな」
「へっ・・・、このお兄さんと話つけてからたっぷり可愛がってやるよ」
 ふざけないで、とイリーナが言おうとした時だった。
 連れの男の身体が、路地裏の壁に叩きつけられていた。
「きゃ・・・」
 レノが、ロッドを取り出している。いつの間に出したのだろうか。電流を流されて、 男はだらしなく伸びている。痙攣しているのか、時折身体の一部がピクピクと動くのが イリーナの眼にも解った。
「やってくれるじゃねぇか・・・」
 大柄の男が舌なめずりをして、指を鳴らす。
 レノが、ゆっくりと顔を上げる。
 その眼は、醒めていた。
「・・・・・・こいよ・・・」
 イリーナが何かを言うよりも早く、大男の拳がレノに向かう。レノは素手でそれを 受け止めて、その巨体をいとも簡単にひねりあげる。
 ロッドがバチバチと音を立てている。
 いつもより、電流が強い。
「・・・おい」
 歯を食いしばってひねられた腕を外そうともがいている男は、レノの眼を見て体を 硬くした。
「死ぬか?」
「先輩・・・っ」
 ロッドが鳩尾に深くめりこむと同時に、男はだらしなく開いた口から飛び出た 吐瀉物を道に撒き散らす。レノが手を離すと、糸が切れた人間のように、その 汚い液体の中に顔を埋めた。
 だが、レノはさらに男の頭を踏みつける。
「死ねよ・・・」
 抑揚のない声。口元に浮かべた笑み。
 ロッドが何度も肉質のある物体に打ち下ろされる。
 骨の砕ける音がして、男は胃の中のものだけではなく、血を吐く。
「せ、先輩!やめてください!」
 その声が聞こえないかのように、無表情なままレノはロッドを振り下ろし続ける。 白いシャツにまた、いくつかの血が飛び散る。
「せ、先輩っ・・・・、レノ先輩!」
 その腕を掴んで、イリーナは身体を両腕で抱きかかえた。
「はっ・・・は・・・」
 胸が大きく上下して、やっと左腕は動きを止めた。
「先輩・・・もう、いいです・・・」
「こいつらは・・・お前を・・・」
「いいんです、もう。もう、いいですから・・・」
 イリーナはレノの身体を抱きしめたまま、呟いた。
 怖くない、といえば嘘になる。
 こうしているだけで、腕も足も震えていた。
 レノの眼を見ることができず、そんな自分を憎んだ。
 息を荒げている男が、イリーナを抱きしめる。骨が軋んでしまうほどの力に、 イリーナは驚いた。だが、それより驚いて、悲しくなったのは、 レノの腕もまた震えていたこと・・・。
「・・・イリーナ・・・」
 震えていたのは、腕だけではなくて、声も。
「せ、先輩・・・?」
「イリーナ・・・俺は・・・」
 いつものように、イリーナにちょっかいを出してふざけているレノが、そこには いなかった。いたのは、ただ自分の腕を汚し続けることに恐れている。
 切ない痛み。絶望的な力。
「血を・・・」
 イリーナは、レノを見上げた。
 そこには、殺気立った色はなく・・・ただ、何かに怯えている色だけが、はっきりと 見えた。
 黙って頬に飛んだ血を拭ってやる。
「先輩、行きましょう」
 手を取って、微笑む。
 どうしていいのか解らない。でも、言いたいことを言うしか、イリーナに できることはないのだ。自分が今、感じていることを。
「私が、いるじゃないですか」
「いる・・・」
「います。絶対に、傍にいます」
 ふっと、レノの表情がゆるむ。
「らしくないこと聞いたぞ、と」
 また笑い出すレノにむっとして、イリーナは睨む。
「らしくないのは、先輩です」
「そうだな・・・と」
 でも、安心をした。
 また大切な人の腕が汚れるのを止められたのだから。
「んで、イリーナちゃん。今晩は慰めてくれるのかな?と」
「なに言ってるんですか!まっすぐ帰ってくださいっ!」
「一緒に帰る?」
「な・・・っ、け、結構です!」
「それ、遠慮してんのかな?と」
「し、してませんってば!」




 血にまみれた腕でもいいと、言ってくれる人がいる。
 絶望の淵から飛び降りようとしているところで、止めてくれる人が、確かにいる。
 そのことの奇跡を、レノは知っていた。







inserted by FC2 system