服と記憶

















 夏が終わる。
 だが、誰にも関係のないことだ。
 少なくとも、ここにいる人間たちには。




 春も、夏も、秋も、冬も。
 宝条は白衣を脱ぐことがない。
 汗をかくこともない。
 代謝機能が麻痺しているのではないだろうか、と、レノは思う。
 タークスに入ってから長くなるが、何年経っても真夏にスーツを着込むことには慣れない。
 そんな「まともな身体」であるにも関わらず、レノは宝条の「不健全な身体」を羨んだ。
「衣替えしなくていいなんて、便利ですね、と」
 レノの言葉に、宝条は振り向きもしない。
 だが、鼻で笑うような音だけは聴こえた。
「私も、衣替えくらいはする」
「冬服をクリーニングに出したり、夏服を出したり、 今日は暑いから半袖にしようかと悩んだり、そんなことするんですか、と」
「するさ」
「また嘘を」
 宝条のまともな発言を、レノは全て嘘だと思っている。
 そうでなければ、まともな顔をして言った冗談だと。
「半袖か長袖で悩む博士なんて、想像できませんよ、と」
「・・・服はともかく、私も季節ぐらいは感じている」
「へえ、そうですか、と」
 宝条は振り向く。
 まだ信じていないレノを睨むためだ。
「サンプルも、気温や湿度に影響される」
 そんなことか、と、レノは肩を竦める。
「この会社なら、気温も湿度も、年間通して一定に保たれているじゃないですか、と」
「私のサンプルが、この会社だけにしかいないと思っているのか」
 言われ、レノは、はたと目を上げる。
 宝条は、既に彼に背を向けていた。
 レノは、この男と長い付き合いではない。
 それまでのことを、どこかで耳にすることはあっても、それは ほとんど謎めいた話ばかりである。
 彼の作り出したもの。
 彼の作り出そうとしているもの。
 それらが何か、レノは何一つ知らないと言ってもいい。
 だが、特別知ろうとも思わなかった。
「サンプル以外で、季節を感じることはないんですか、と」
 夏の思い出とか。そういうものは。
 尋ねてから、レノは自分で笑ってしまう。
 訊くだけ無駄かもしれない、と。
 そんな考えが透けたのか、宝条はもう1度振り向いて、先刻と全く同じ顔で睨む。
 宝条は、細かな表情の変化が、ほとんどない。
 まるで、表情のテンプレートがあるのではないかと思うほどである。
 レノは睨まれていることも忘れて、そんなことを考えていた。
「私の思い出を聞いて、どうするんだ」
「どうするって・・・」
「思い出がないと言ったら?」
「・・・・・・、・・・・・・、別に、なにも?」
 それは、本心であった。
 思い出がない人間を、憐れむつもりもない。
 語りたくないものがあるとしても、どうでもいい。
 宝条の記憶は、宝条だけのものだ。
 煙草の箱を開けて、初めて空であることに気付き、 レノはがっかりしたようにそれを投げ出す。
「ねえ、博士、煙草ないんですか、と」
「きみは、もう少し脈絡のある会話をするべきだ」
 言われ、「そうか」と、レノは笑う。
 宝条の、そのようなところが好きだった。
 彼は、黙っているくせに「続きを尋ねて」なんて素振りをする、 鬱陶しい人間のようなことは、しない。
 同情も。
 同調も。
 他人には、何も求めない。
 何ひとつ求めない。
 そんな人間を、レノは好もしく思う。
「博士」
「今度はなんだ」
「外に飯食いにいきません?俺、腹減ったんですけど、と」
 宝条の顔が、呆れ顔に変化する。
 不満を隠そうともしない顔。
 今にも「ひとりで行け」と言いそうな顔。
 それでも席を立つ宝条を見て、レノは笑った。












 私が好きな、レノと博士の話。
 夏の始まりあたりに、原稿のためのリハビリに書きました。
 最初から原稿として使うつもりはなかったので、少しだけ手直しして、 こちらに置くことにしました。



 2007.07.××
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