どこにも

















 どこにもない夏だった。
 イリーナはぼんやりと、最後に蛍を見たのはいつだったろうと考える。光の色や、むせかえるような緑の 香りを憶えてはいても、最後の記憶だけが思い出せない。
 裸足で、小さな光を追いかけた。
 白いワンピースの裾に、夜露がたくさん滲み込んでいた。
 靴など履く必要もなかった。
 今のように、きっちりとスーツを着る必要もなかった。
 顔を上げても、そこには蛍どころか頼りになる星ひとつない。
 息をつき、彼女は足元を見下ろす。
 小指の付け根と踵には、水ぶくれが破れた痕と、滲んだ血。
 慣れない靴のせいで、追いかけた男を逃がし、こんなことになって。
 イリーナは両手に持っていた靴を廃ビルから投げ捨てる。
 デザインが気に入っていた靴だった。いつも同じ靴ということに飽きてしまい、ヒールの高さが いつもと変わらないから大丈夫だろうなんて高を括って、買った。ピンヒールで全速力で 走れるわけがないのに。
 結果、靴ずれをし、ヒールは折れた。
「・・・ばかみたい」
 窓の淵から降り、イリーナは汚れた床に素足を下ろす。
 あたりにはガラスの破片や、瓦礫が散らばっている。
 この場所は、裸足では歩けない。
 どこにも一歩を踏み出すことができない。
 幼い頃は、素足だろうがどこにでも行けるような気がしていたのに。
 もし行けなくても、きっと王子様のようなひとが迎えに来てくれると信じてすらいたのに。
「・・・どこにも、行けない」
 現実は、そんなもの。
 王子様とは程遠いひとを愛してしまって。
 靴がなければ歩けない場所に来てしまって。
 手を伸ばしたくなるような光などどこにもなくて。
 どこにも。
 どこにも・・・。
「おい」
 暗い階段に、浮き上がるような赤い色。
 夜のかがり火のように、それはイリーナに近づく。
 男は目の前に立つと、無造作に彼女のジャケットのポケットに手を入れて、小さな発信機を 取り出した。
「発信機がずっと動かないから、死んだと思ったぞ、と」
 だから迎えにきた。
 冗談か本気か解らないことを、この男は真顔で言う。
「・・・ごめんなさい」
 暗がりで浮き立つ白い素足を見て、レノは鼻を鳴らす。
 彼女が靴を新調したことを、彼は知っている。
 一緒に買いに行ったのだ。
 慣れない靴だと靴ずれするぞ、と言ったのに、彼女は買った。
 たまにはこんな靴も履きたいんです、と。
 そのことには触れず、レノは背中を向けてしゃがむ。
「帰るぞ、と」
 黒い背中に手をかけ、イリーナは尋ねる。
「どこに帰るんですか」
「・・・どこでも」
 会社でも、お前の部屋でも、どこでも。
 ふわりと足が地面から離れる。
 首筋にしがみつき、イリーナは目を閉じた。
「どこでも、いいんですか」
 乾いたような声を聴きながら、レノは歩き出す。
 朽ち果てた階段に、こつりと踵の音が響いた。
「どこにでも連れてってやるぞ、と」





 木々すら眠る新月の夜。
 イリーナはレノの内ポケットを探って煙草を出し、レノの口唇に咥えさせ、火を灯す。
 橙色の光は、夜道を歩く者のランプのようだった。
「で、どこに行くのかな、と」
 肩越しに明かりを見つめ、イリーナは深く息をつく。
「・・・どこにもいかないでください」
 どこにも。
 呟き、泣きそうになるのを堪えた。















2006.6.21






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