風邪

















 げほ、と咳をすると、痰が絡む心地がする。
 ルードは片手を口元に当てながら、部屋の電気を点けた。
 一週間ほど前から続いていた喉の痛みは、本格的な風邪となり、今現在 ルードの身体を侵している。今朝も寝起きがつらく、シンクには洗われていない食器が 積まれていたが、今それを洗う気もおきない。
 昼に飲んだ風邪薬のせいで、口唇も、口腔内も、ひどく乾いていた。口唇を撫でると、 縦に入った皺が指に触れる。こんなときに、いつも女が持っている リップクリームというものが羨ましくなる。
 着替えることすら億劫で、彼は冷たいベッドにもぐりこむ。
 靴下を履いていても、ひやりとした感触は肌に伝わる。爪の先から、 冷気が浸透してくるような気がした。
 じっと目を閉じ、布団の中が温まるまで、彼は大きな身体を芋虫のように丸めているしかない。
 サイドボードの中に入っている体温計を取ろうとして、ふと、レノの言葉が思い出される。
 彼は言っていた。
『熱測って、38度とかあると、うわあこんなにあるのか、と思って、急に 具合が悪くるんだな、と。だから俺は、熱なんか測らないぞ、と』
 思い出したその台詞に妙に納得してしまい、彼は冷たい空気に伸ばした手を 布団の中に引っ込める。
 薄く目を開けると、ブラインドから射す夜の明かりが、枕元のサングラスに 当たって不思議な色に反射していた。





 ひた、ひた、と、裸足のこどもが歩くような音がする。
 かさかさという耳ざわりな音も。
 それは目を閉じたままのルードに近寄ってくる。
 そして、額に触れる、冷たい感触。
 ルードは、目を開くと同時に、その額に触れるものを掴んだ。
「っ・・・!」
 目の前には、声に出さずに驚いているイリーナの顔。
 訓練のせいか、彼女は驚くべき事態に遭遇しても、決して声を上げることはない。ひゅっと 息を飲んだまま、身動きすら、しない。
「・・・イリーナ?」
 掴んだ手を放し、ルードは時計を見る。
 もう、昼に近かった。
 女は、勝手に入ってすみませんと、小さく頭を下げる。
「ルード先輩、昨日の帰り際に具合が悪そうだったから、心配で、 来ることにしたんです」
 鍵は、レノ先輩に貸してもらいました。
 スポーツ飲料や、薬の入ったスーパーの袋をどさりと下ろして、 彼女はにこりと笑う。
「熱、測りましたか?」
「・・・いや」
「昨日も?」
「ああ」
「だめですよ、測らないと!熱があるかないかで、飲む薬だって変わるし、 あんまり高熱だったら病院にだって・・・」
 後輩にまくしたてられ、ルードはサングラスをかけながら靴下を履いたままの足を床に 下ろす。熱のせいか、長い時間寝たせいか、どうにも 地に足がついていないような心地がする。
 よく、解らなかった。
 なぜ彼女が、自分を気にかけ、休日だというのにわざわざ薬を買い、食べものを買い、 自分のところへ来てくれたのか。
「洗いものもしておきますね。服も着替えたほうがいいですよ」
 スーツもクリーニングに出しておきますから。
 悪気なく笑い、後輩はスーパーの袋から食材を取り出す。
「冷蔵庫の中のもの、勝手に使いますね」
 彼が返事をするよりも早く、イリーナは冷蔵庫を開けて、何があるかを確かめている。 ルードは男の一人暮らしの割には料理をするほうだったが、それと、 中身をきちんと整理しているということは別問題だ。
 ぼんやりとした頭を抑え、賞味期限が切れているチーズや調味料の存在などを 考えていると、イリーナが韮を持ち上げて見せる。
「先輩、にら平気ですか?嫌いなものあります?」
 首を振ると、彼女は「そうですよね」と笑う。
「レノ先輩なんか、好き嫌い多くて面倒なんですよ」
 あはは、と、冗談まじりの笑い。
 ルードは凝っと、そんな彼女の背中を見つめた。
 卵を割る手つき、包丁を動かす腕、肩、腰。
 そこで視線を逸らし、ルードはやっとスーツを脱ぎ始めた。寝汗のせいか、 普段は糊をきかせているシャツもしなびた手触りになっている。Tシャツと スウェットを掴んで脱衣所に入り、彼は鏡を覗き込んだ。
 疲れている風貌。
 落ち窪んで、隈のできている目。
 必要外の場所に伸びてきている髭。
 考えれば、当然風呂にも入っていない。
 女に見せられるような姿ではなかった。
 勢いよく出した水で顔を洗っていると、 彼は急にイリーナに対して申し訳ないという気持ちが沸き起こってきた。
「イリーナ」
 呼ぶと、包丁を持ったままのイリーナがにこりと振り向く。
「あ、先輩の目って、やっぱり優しいですね」
 ルードが言おうとしたことよりも早く、彼女はそう言った。
 邪気も打算も感じられない、率直な言葉に、ルードは息が詰まる。
(・・・おれは)
 おれは、おまえが思うような男ではないのに。
 そう言いたい気持ちと、知られたくない気持ちが、心の中でぶつかりあい、 妙な緊張感を生み出す。
 そしてそれは、ルードの腕を強く弾き動かした。
 背後からその腕に抱き竦められ、イリーナは僅かに肩を震わせる。
 一房の韮が、ぱさりと床に落ちた。
「・・・おれは、やさしくない」
 細い金糸の髪の毛は、何も言わない。
「・・・男の部屋にのこのこ来て、もし俺が力づくで何かしたら、おまえはどうする つもりなんだ・・・」
 腕の力を緩める寸前に、イリーナはぐるりと身体を曲げる。
 目を伏せ、彼女は口元だけを笑みに変える。
「先輩は、そんなことしません」
 やさしいひとだもの。
 覚悟もなしに言われた言葉に、ルードは眉を寄せてしまう。
 身体が弱り、心も弱っていたせいだろうか、彼はまるで 縋るように、彼女さらに強く抱き締める。
 これでもやさしいというのか。
 これでも、やさしいと、言ってくれるのか。
 そう問うような力に、イリーナは黙って、彼の背に腕を回す。
「ごはん食べれば、きっと元気も出ますよ」
 ね。
 諭すような、やわらかな声が彼の耳をくすぐる。
 ほんとうにやさしいのは、おまえだ。
 言おうと思っても、乾いた口唇からは吐息しか漏れなかった。
 











 久しぶりに、このふたりの話を書きました。
 けっこうお似合いだとおもいます。



2006.3.20






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