でね、あの子最近彼氏ができたらしいのよ。
 えー?もしかして、例の化学部門のインテリっぽい子?
 甲高い声が、エレベータの中に響いている。
 イリーナは書類を持ち直して、腕時計に視線を落とす。
 もうすぐ、定時業務が終わろうとしているが、きっと今夜は残業だろう。 レノの伝票整理という雑務を手伝わなくてはならない。
 後で、夜食を買いに出なくては。
 考えている間も、2人の知らない女子社員は会話を続ける。
 出てくる単語が、いちいち耳に障る。
 特に彼女が苛立ったのは「カレシ」という言葉だ。
 まるで、どこか別の国の言葉のように、軽く響く。
「あの子は喜んでたけど、例の彼氏は元カノとまだ続いてるっぽくって、 なんか不憫なのよね」
「それって、まだ切れてないってこと?」
「うん。その彼女のほうが粘ってるみたいだけど」
 カレシ、カノジョ、元カノ。
 なんだ、その単語は、と、言いそうになる。
 エレベータは長い。
 なぜ、神羅はこんなに高い建物にしたのだろうと、イリーナは 設計した顔も知らない人物を恨んだ。





「なんで疲れた顔してるのかな、と」
 そう言う男の顔をちらりと見て、次に隣に詰まれている 伝票の山を見る。
 まだ全然片付いてないじゃない。
 言いそうになり、口を噤む。
 どうせ、この男は自分を頼るつもりなのだ。
「・・・今晩、遅くまでかかるなら、夜食買いに出ますけど」
「ああ、それなら俺も行くぞ、と」
 残って仕事をしてくれればいいのに。
 それも、黙って心の中に留めておく。
 イリーナは財布だけをポケットにねじ込み、薄手のコートを掴んで 男の背中を追った。





 しょうが焼き弁当と、ステーキ弁当。
 レノが迷っているふたつの写真を、イリーナはぼんやりと眺める。どちらも 対して変わらない気がするが、レノは案外本気だ。
 肉の量にこだわっているらしい。
(これが、私のカレシかしら)
 先刻の女子社員の真似をして、そう考えてみる。
 なんだか可笑しく、彼女は小さく笑った。
「私がしょうが焼き弁当にしますから、先輩がステーキ弁当にすれば いいじゃないですか」
 その申し出に、レノは何も言わずにニヤリと笑う。
 久しぶりに見た、子供のような笑顔だ。
 赤と橙色の縞になったエプロンをつけてレジに立っていた男が、ひさぶりですね、 残業ですか、とレノに笑う。
 顔見知りらしい。
「月末は大変だぞ、と」
「大変ですね」
 男の視線が、ちらりとイリーナに向けられる。
「お連れさんは、後輩さんですか?」
 レノは札を出しながら肩をすくめる。
 そんなもんだ、と言うような動きに、男は笑った。
「ほんとに、それだけですか?」
 いつもは、女の子連れて歩くの嫌がるのに。
 その言葉に、イリーナは静かに驚いた。
 温かなビニール袋を受けとる手が、一瞬止まってしまう。
 レノは何も言わない。
 相変わらず勘がいいな、と笑うだけで。





 レノの半歩後ろを歩きながら、イリーナは彼の背中を見つめる。
 しょうが焼き弁当とステーキ弁当の入った袋が、かさかさ音を立てる。
「私は、先輩のカノジョですか?」
 外国語を使うように、イリーナはそう尋ねてみる。
 レノは、その言語を理解できない、といった顔で振り向いた。
「女だろ、と」





 女。
 なんて素敵な響きだろうと、イリーナは思わず立ち止まる。
 あんな外国語、必要ないだろうと思えるほどの言葉。





 だからおれは、お前のカレシなんかじゃねぇぞ、と。
 イリーナの心を読んでいるかのように、レノは笑う。
 温かな包みを抱えなおして、彼女は空を仰いだ。
 今自分の目の前にいるのは、私の男なのだ、と。





 それは、滴るほど甘い響き。












 2005.10.28






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