手紙とクッキー

















 薄暗い部屋の中で、テレビの明かりだけが青白く光っている。 まだ午後であるというのに、曇りの日のミッドガルは夕暮れ時の ように暗く、ライトをつけて走る車もいるほどだ。
 イリーナはテーブルの上のリモコンを鷲掴み、 夕方から雨になるという天気予報を聞くや否や、テレビを消した。
 途端、耳鳴りがしそうなほどの沈黙が彼女を襲う。
 今度はコンポのリモコンを掴んで「再生」を押そうと思ったが、 入っているMDは嫌いな男性シンガーだと気付き、すぐに止めた。こんな 時に、好きでもない――むしろ嫌いな――男の声など、聴きたくない。
 昨晩買ってきた、気に入っている店のハーブクッキーをのろのろ掴み、1度に 噛み砕く。湿気ていて、ひどく不味い。
 彼女は、テーブルに突っ伏した。
 紅茶を淹れる気にもならない。
 料理をする気にもならない。
 親に手紙を書こうと思ったが、3行だけ書いて放り出された 薄桃色の便箋は、 リモコンとクッキーの粉の下敷きになっている。
 レノが忘れていった煙草の箱に手を伸ばし、一緒にあった安いライターで火をつけると、 彼の真似をするかのように目を細めた。
 最初の3口はふかして、4口目を深く吸い込み、音を立てて、ふーっと口唇の 隙間から白い煙を吐き出す。
 それを何度か繰り返し、灰を落とす。彼は、人差し指と中指で煙草を挟み、 親指で吸い口を弾くようにして灰を落とす。そのほうが、持ち替えなくていいし、 合理的なんだと言っていた。
「・・・合理主義でもないくせに」
 やっと何かを言葉にして、彼女はオレンジ色の光を見つめる。
 レノの色だと思った。
 彼は頭の赤より、こんなふうに、小さなオレンジ色のほうが似合う。
 灰皿に入りそこなった灰が、ぱらぱらと便箋の上に落ちた。
『おかあさんへ
 元気ですか。わたしは元気にやっています。
 たくさんのひとを殺して、元気にやってい』
 そこまで書かれて、手紙は止まっている。
 3行の上には、ぐしゃぐしゃと線が書かれていた。
 続く言葉が見つからない。
 ます? ません?
 どちらを書く気もない。
 娘が人殺しになっているなんて、言うはずもないのだから。





 まだ新しかった煙草を、気付くと全て吸っていた。
 イリーナはぼんやりと、その空箱を見下ろす。
 自分がどうかしていることは、とっくに気付いていた。





 頭の上で、どん、と音がする。
 薄目を開けると、目の前にブランデーの瓶が立っていた。
 V.S.O.P。書かれた文字が目に入る。
 どうしてこんな高級なものが、目の前に?
 働かないままの頭をさらに上げると、レノが上着を脱いでハンガーに かけているところだった。
 ブラインドの外は、もう闇に包まれている。
「・・・せんぱい?」
「ひとの煙草勝手に吸って、つまんねぇ手紙書いてんじゃねぇぞ、と」
 笑うような、それでいてひどく真面目な声。
 イリーナは静かに便箋に視線を落として、クッキーの粉を払う。
 ブランデーの横には、新しいクッキーの箱があった。
 中身はチョコチップクッキーだろう。見なくても解る。
 レノはひどく単純で、この店のクッキーを頼むと必ずチョコチップを選んでくる。ただの クッキーではなくチョコチップなんだから、芸がないわけではないのだと本人は言い張る。
 だからイリーナは、自分でチョコチップクッキーを買うことはない。
 それは、贈られるものだ。
 レノからもらう、幸福の食べもの。
 ことわりもなく、それをもそもそと口に運ぶと、甘ったるい味に指先が震えた。
「・・・なんで泣くんだよ」
 イリーナは顔を歪めて食べ続ける。
 涙とクッキーの粉を、ぼろぼろと便箋に落としながら。
 3枚目のクッキーを食べ終わると、イリーナは肩を大きく震わせ、 さらに顔を歪めて涙を流した。
 子供のように、うっ、とか、うえっ、とか、幾度も嗚咽を漏らして。
 涙のせいで頬にはりつい金色の髪の毛を払い、レノは黙る。
 ばかじゃねぇの、と、からかおうかと思った。
 だが、きっといつものように憤慨されないことは解っている。
 ばかな手紙。
 ひとを殺して元気でいるより、ずっと、ばかな手紙。





 彼女が正直すぎることを、レノは誰より知っている。
 自分のように狡い人間は、誰にも――たとえ、送らないと解っている手紙にでも―― 懺悔などしない。
 だからこそ上手に目を閉じることができる。
 正しい瞼に口付けて、レノはイリーナをテーブル越しに抱き締める。
 なぜだろう。
 なぜ、彼女のように正しく目を閉じることができる人間ばかり、 こうして罪の重さに潰されてしまうのだろう。
 自分のような狡猾な人間は、そんな荷物をすり抜けてゆくのに。
 ――だから神など信じられない。
 目を閉じ、レノは彼女の髪を撫でる。
 









 もう1度彼女が眠ると、レノは湿気てしまったハーブクッキーの 箱を開き、薄桃色の便箋を束ごと押し込んだ。
 元気でやってい、という文字が見える。
 新しい煙草に火をつけて、玄関に置かれているゴミ袋にそれをねじ込み、 天井に向かって煙を吐き出し、呟く。
「おれは元気です、と」
 ひとを殺しても元気にやってい。
 ます。
 ・・・それが、なにか?
 天空のものを嘲るように、彼は笑う。










 彼女もまた、元気にやってい。
 ます。
 文句があるならどうぞ、と。












 2005.10.22






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