煙 草

















 あのひとが、あまりにも遠慮なく私の部屋でスパスパと煙草を吸うものだから。
 だから、つい。
 2人分の食器を洗いながら、イリーナは背後のベランダにいる男のことを考える。秋も 深まったこの季節に、ベランダ監禁は酷だったかもしれない。
(・・・先輩が悪いのよ)
 あまり部屋に煙草の匂いをつけたくないって、言っていたのに。
 ぼそりと呟き、少しだけ荒々しく、食器かごに白いボウルを置く。
 かけられたタオルで手を拭き、ケトルに水を注ぐ。食後のコーヒーが入るまでは、 レノを部屋に戻す気はなかった。
 細いシルエットの椅子に座り、青白い炎を見つめる。
 換気扇を回しても、まだ、煙草の匂いが充満している気がする。
 その中にいるせいか、ぼんやりと、昔のことが思い出された。










 煙草の匂いが大嫌いだった。
 エレベータの中、人ごみで誰かと擦れ違ったとき、あらゆる場所でその匂いがする度に、 イリーナは眉間に深い皺を刻む。
 ヘビースモーカーと言われる人間の匂いなど、嗅ぐに耐えられないものである。 身体の細胞に染み付いているようなものなのだから。
 そのせいであろう、タークスに入ったばかりの頃、 レノと過ごす時間は苦痛であった。
 険しい顔をしたままのイリーナに、レノは可笑しそうに尋ねる。
「なんでそんな顔してるのかな、と」
 目だけで逡巡すると、イリーナは蚊の鳴くような声で言う。
「煙草の匂い、苦手なんです」
 はてと首を傾げ、レノは自分の袖に鼻を当ててみる。
 彼本人が解るはずなどなかった。
「匂い、するのかな、と」
「します」
 それも、かなり吸っている人間の匂い。
 ・・・とは、言わずにおく。
 レノは何も構うことなく、くっと喉で笑う。
「それじゃ、惚れた男が煙草くさいと困るな、と」
「煙草くさい人には惚れません」
 きっぱりと言い切った新人に、レノはわざとらしく驚いてみせる。
「人生、なにが起こるかわかんないぞ、と」
「いえ、これだけは解りますから」
 ツンと言い放った彼女の隣では、レノが既に新しい煙草に火をつけている ところである。
 嫌われようが、好かれることがなかろうが、一向に気にしない様で。
 笑って、いる。










 ああ、本当に人生とは何が起こるものか解らず。
 イリーナはこうして、煙草くさい部屋でコーヒーを淹れている。
 この香りで、多少は紛れるだろう。
 白いカップにそれを注いでソーサーに置き、ベランダに向かう。
 ガラス越しの真っ赤な後頭部から、煙が上がっているように見えた。
 男は締め出されたことに反省する様子もなく、のんびりと夜景を見つめながら煙草を吸っている。
「先輩、コーヒーです」
「締め出したくせに、お茶を出してくれるのかな、と」
 口元が意地悪く笑う。
 構うことなく、イリーナはソーサーを突き出す。
 男は追撃することなくそれを受け取った。
「さすがにベランダは寒いぞ、と」
「自業自得です」
 同じようにレノの隣に座り、まだ熱いコーヒーカップを両手で包む。
 だが、それはレノの手によって奪われてしまう。
 彼女を肩ごと抱き寄せて、男は細く煙を吐き出した。
 暗い夜空で、なぜかそれは映える。
「・・・先輩、煙草くさいです」
「自業自得だろ、と」
「なんでですか」
「煙草くさい男に惚れないとか、言ってなかったかな、と」
 試すような声。
 イリーナは、温かく「嫌な匂い」に抱かれたまま目を伏せる。
 そんなことを、今になって穿り返してくるなんて。
 そう思っても、反論することもできない。
 この匂いすら居心地が良いと、思ってしまうのだから。
「なんでも、慣れが大切だぞ、と」
 仕事も、匂いも。
 言い終わると同時に、煙を含んだ口付け。
 以前ならば全力抵抗するはずのそれが、今はひどく甘く。
 レノという男そのものであるかのように感じる。
 男が口唇を離すと、イリーナは追うように口唇を求める。
 触れ合わせたまま、レノは目を細めた。
「嫌な匂いなんじゃなかったのかな、と」
 その匂いがする指も、吐息も、口唇も、身体の全ても。
 今は彼女にとってひどく甘いものでしかない。
 そうと知っているのに。
「・・・・・・いじわる」
「わかってるならいいぞ、と」










 コーヒーが冷めるほど長いキスの果てに、イリーナは思う。
 煙草というものは、匂いだけでも依存してしまうのだろうか、と。










 それならわたしは、いつから?












 2005.09.14






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