求 め て 叫 ん で 


−SIDE:YRENA−

































 霧雨の夜、わたしたちは別れた。
 別れた、というのは、「また明日ね」なんていう別れではなく。
 静かに、・・・とても静かに、「さようなら」と言う別れ。
 次の瞬間、私たちの関係から「恋人」という言葉が抜ける別れ。
 冷たい雨だった。
 道の真ん中で、私は俯いたまま、踵を返した。
 これで楽になれる。
 あのひとの束縛も、なにも、なくなって。
 そしてわたしは、ひとりになった。










 ひとりに戻った。










 だれも、なにも、わたしたちに言いはしなかった。
 そして、わたしたちも、何も変わりはしなかった。
 ただ、先輩と後輩という関係に戻っただけのこと。
 ・・・そう、なにも、変わってなど、いない。










 知らないひとから、告白をされた。
 別れてから、まだ3日しか経っていなかったのに。
 告白をされた、と言っても、今、この瞬間にだ。
 何を言っていたのか、よく、聞こえなかったけれど。
「そ、それで・・・、ぼくじゃ、だめかな」
 悪いひとではなさそうだ。
 きちんとスーツを着ていて、黒く短い髪の毛は櫛が通されている。
 声は小さいけれど、こういうときなのだもの。
 誰だって、小さくなるわ。
「ぼ、ぼくはタークスとかじゃなくて、ただのヒラだけど・・・」
「いいわ。付き合いましょう」
 私は微笑んで、彼にそう言った。
 ああ、そんなに嬉しそうにして。
 こんな笑顔を見せるほど、私と付き合いたかったのかしら。
 知らなかった。
 誰かに恋されるとか、想われるなんて、久しぶり。
 ・・・感覚が、鈍っていたのかもしれない。
 あのひとと一緒にいたせいで。










 彼はディナーに、綺麗なレストランを予約してくれた。
 お酒にはあまり強くないみたいで、照れたように「あまり呑めないんだ」と言った。
 そして、彼は煙草を吸わないひとだった。
 いつも、きれいなハンカチを持っているひとだった。
 私をばかにする言葉を、ひとつも言わなかった。
 とても穏やかに、私は彼と過ごすことができた。





 彼は、とても優しく、遠慮がちに私を抱いた。
 本当にいいのかな、とか、夢みたいだ、とか、そう言って。
 知らない香水の匂いに、私を目を閉じた。
 知らない指が、私の髪を撫でた。
 知らない声が、私の名前を囁いた。
 知ることのなかった、夜だった。





 ああ、これが幸福というものなのね。
 すてきなひとと恋をして、大切にされて。





 これがわたしの望んでいたもの。










 その日、彼は私をバーに連れて行った。
 それは、私とあのひとがいつも行っていた店。
 入った瞬間、眩暈がするほどの懐古的な気持ちに動揺した。
「濡れちゃったね」
 そう言って、彼はいつものように綺麗に畳まれたハンカチで、私の肩や髪を拭いてくれる。私は「ありがとう」 とだけ微笑んで、そして、見た。
 見て、しまった。
 カウンターに座る、あのひとを。
「イリーナ、どうしたの」
 そう言って、彼は振り向いた。
 その視線の先には、やっぱり、あのひとが。
「・・・あ」
 あのひとは、少しだけ私を見て、静かに席を立った。
 擦れ違う瞬間、あの香水の匂いが私の鼻腔に届く。
 そのひとに振り向くことも出来ず、私は立ちすくんだ。
「イリーナ、座ろうか」
 彼がそう言って私の背中に触れる。
 それでも私の足は動くことができなかった。
 あのひとが座っていた席には、山のように吸殻のねじ込まれた灰皿。それから、 半分も飲まれていないギムレット。
 そして。
 そして、あの、香り。
 それらが一瞬にして、私の記憶の隙間を埋めてゆく。
 ああ、足りない。
 最後の欠片が、どこにもない。
「イリーナ?」
 彼の言葉は耳にも届かなかった。
 そして、足が、動き始めた。










「先輩!」













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2005.07.05





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