自分しか持ち得ないもの。
 ・・・そんなものを、私は持っているのかしら?










 おい、と、レノの声が頭上から響く。
 仮眠室のベッドで、イリーナはゆっくりと アイマスクを外した。そして瞼を開くと、眩しい蛍光灯の光と共に レノの顔が視界を満たす。
「時間だぞ、と」
「あ・・・、はい・・・」
「アラーム、セットしてなかったのか、と」
 イリーナは身体を起こして携帯電話を開く。
 確かにアラームはセットされていたが、どうやら彼女はその音にも目を 覚まさなかったらしい。
 疲れていた。
「すいません・・・、ちょっと、疲れていて」
「・・・ふぅん」
 ベッドから降りて、つま先を靴に入れる。
 微かに頭痛がしていた。
 イリーナは既に歩き出しているレノの背中を見つめながら、仮眠室を出る。 いつもと変わることのない男に、彼女は溜息を漏らす。
 タークスのメンバーは2週間、休みもなく出勤していた。昼間の勤務で疲れて帰宅しても、 深夜にまた出勤か、携帯で呼び出されるか、である。精神力だけでやってきたイリーナも、 さすがに今は疲労を隠しえなかった。
(どうして、このひとは平気なのだろう)
 平気に見せているのかもしれない。
 だが、あまりにもそれは完璧な振る舞い。
 イリーナは両手で頬に触れてみる。肌の調子が良くなかった。 睡眠時間も足りず、食事も簡単なもので済ませている。ストレスのせいか、 髪の毛もパサつき、ささくれも出来ている。昨日は口内炎まで出来てしまった。 生理は当然のこと、遅れている。目も微かに充血をしていた。
 ろくな化粧もできていない今の自分の顔を、今は見たくなかった。





「こんな状態も、あと少しで終わるだろ、と」
 エレベーターの中で、レノは淡白にそう言った。
 それが慰めなのか、イリーナには解らない。
 仕事のことを忘れて、ゆっくりと眠りたい。
 携帯電話の音に気を取られず、風呂に入りたい。
 電話の音やアラームの音が鳴るたびに、ベッドから飛び起きたり、 濡れた身体でバスルームから飛び出したり、そんなことを、もうしたくなかった。
 何より、レノとの時間が欲しかった。
 こんなふうに、仕事で一緒になる時間ではなくて。
 美しくない姿を、見せるのではなくて。
 外観エレベーターのガラスに凭れて、彼女がそんなことをぼんやりと考えていたとき。 その思考は、総務部の女子社員たちが入ってきたことによって中断された。
「あ、レノさん、お疲れさまでーす」
 入ってきた2人のうち、ひとりがレノに頭を下げた。
 言われたレノは、営業用の微笑みを返している。
「まだお仕事ですかぁ?」
 挨拶をしたほうの女が、ブラウスの襟元を触りながら問う。イリーナの視線は、 その綺麗に手入れされた爪と指に向かった。
「まぁね、と」
「えーっ、大変ですねぇ。もう定時業務、終わる時間なのに」
「俺たちの仕事は24時間営業中なんでね、と」
 冗談めいたレノの言葉に、ふたりは高い声で笑う。
 イリーナは珍しく、苛々した。
 それは冗談ではなかったから。
「あ、リサ、それで今度の木曜だけどぉ・・・」
 相変わらず襟元を触りながら、女は相方に話を振る。
 もうひとりの女は、襟ではなく綺麗に巻いた髪の毛を触っていた。
「合コンっていっても、ちょっと顔合わせぐらいだしさぁ」
「うーん、どうしよっかなぁ・・・」
「軽い感じでいいしさ。リサいると、盛り上がるし」
「ま、いいか。ナミの顔も立てないとだしね!」
「ありがとー!今度、ランチおごるから!」
 遠い国の言葉だと、イリーナはぼんやりと考えた。
 アフターファイブの過ごし方を、彼女たちは心得ている。男たちの心を くすぐる言葉遣い、目線、服装。
 彼女たちの武器は、全身だった。自分という人間、そのもの。
 ガラスに薄く映った自分を見つめて、イリーナは心が波立つ。
 今の自分は、女として、一体なにを持っているというのだろうか。
 持っているものは、戦う術ばかり。
(女の子というのは、こういうもの?)










 自分はいま、なにを、持っている?

 私だけの持つものなんて、どこに?










 なぁ、おまえほんとに戦えんのかな、と。
 ・・・数分前、レノに言われた言葉が頭の中で回る。
 暴徒鎮圧なんて、やっぱり、おまえとふたりじゃなぁ。
 そんなことも、彼は言っていた。そして、
 なんか、疲労困憊してますって感じだぞ、と。
 とも。
(そのとおりよ)
 血の沸いたアンチ神羅の人間たちを前にして、イリーナは毒づく。
 疲れているわ。ものすごく。
 だが、今、女を捨てずにはいられなかった。
 それを捨てた結果、何も得るものがなったとしても。
 豹のように戦うレノを横目で見ながら、彼女もまた男たちに立ち向かう。あまりに抵抗を するようならば、手段は選ばなくとも良い。そう、言われていた。
『戦意喪失させておけ』
 書類をシュレッダーに入れる程度のことのように、ツォンは言った。
 その言葉を反芻しながら、彼女の足と、腕は動く。
(私が今、捨てゆくものは)
 女なんかでは足りない。










 人間、そのもの。










 やっぱりなぁ、と、遠くで声がした。
 いつもの、レノの声だった。
「おい、生きてんのかな、と」
 本当に生死を問うのならば、そんなことは言わないだろう。
 そう考えながら、イリーナは瞳を開く。
 その日、2度目の目覚めだった。
「・・・先輩」
 そこは、車の中だった。仕事の為に借りている、会社のものだ。
 レノは車の灰皿に煙草をねじ込んで、小さく笑う。
「やっとお目覚めだな、と」
 一杯になってしまった灰皿を見つめて、イリーナは自分がどれほど長い間 気絶していたのかを知った。
「おまえ、どっかやられたのか、と」
「いえ・・・、そうじゃ、ないんです」
「なら、なんでいきなり倒れたんだ、と」
 それも、最後のひとりを倒した後に。
 そう問われ、イリーナは声を詰まらせる。
「あの・・・、・・・、眠くて・・・」
「はぁ?」
 レノは、すぐに笑った。
 いつものように、ばかにすることもなく。
「あいかわらずだな、と」
 疲れてると、ヤッてても寝るしな、と。
 その言葉に、イリーナは思わず身を乗り出した。
「寝たことなんかないですよ!?」
「寝そうになって、目ぇ覚めることとかあるだろ、と」
「そ・・・、それはそうですけどっ・・・!」
 けれど、本当に寝てしまったことはない。
「今日は、寝てもいいぞ、と」
 言ったレノの手が、彼女の首筋に触れる。
 イリーナは乗り出した身を盛大に引いた。
「だ、だめです!今日はだめです!」
「・・・なんで。2週間ぶりだぞ、と」
「昨日とか、お風呂入ってないんです!」
 だから、もう、本当に勘弁してください。
 こんなことを言うのも嫌だというように、イリーナはレノの身体を必死で 押しのける。
 グローブを外した手には、はげかけたテーピングが巻かれてる。
 その手を掴み、レノは力づくで彼女を抱き寄せた。
「お前、俺が風呂入ってなかったら、したくないかな、と」
「そ、それは、そうでもないですけど・・・」
「それと同じだぞ、と」
「けどっ・・・!」
 イリーナは、まだレノの胸を押し返す。
 押し返しながら、苦しそうに肩を震わせた。
「お、お風呂だけじゃなくって・・・、私、最近肌だって汚いし、下着だって上下違うし、 な、なんかいろいろ・・・、女じゃないんですっ・・・!」
 泣きそうになりながら、彼女は言う。
「それに」
「ムダ毛の処理とかしてないんです、と」
「そっ・・・!」
 それは違うと言いかけて、イリーナの言葉は止まる。
 言われてみれば、その通りであった。
 レノは可笑しそうに笑い、耳まで赤い彼女を抱き締める。
「ほんとに、そんなことどうでもいいぞ、と」
「でもっ・・・!」
「イリーナ」










 彼女の動きは、一瞬にして止まった。
 そして、レノの手は再び細い首筋に触れる。
 一瞬何かを言いかけた彼女の口唇は、静かに塞がれた。
 その沈黙の合図の後、レノは再び囁く。
 イリーナ、という、彼女の持つ唯一無二の名を。










「おれは、イリーナなら、なんでもいいんだけどな、と」










 すべてを捨てて、なにもかもを失ってしまっても、そこに何かが残るとしたら、 それは名前なのだと、イリーナは知った。
 その名を持つ自分ならば、それでいいと、彼は言う。
 彼女もまた、相手の首に腕を回し、呟いた。
 レノ先輩。と。
 泣きそうになりながら、何度も、何度も、何度も。
 どうしたんだよと、レノが笑っても、ずっと。








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 99999打を踏んでくださった、凪さまへ。
 テーマは「名前」ということで頂きました。
 最初から予感はしていたのですが、長くなってしまいました。
 名前は、すごいものだと思います。改名とかはできるけれど、大体のひとにとっては 一生ついてまわるものじゃないですか。人生において、乳幼児から老人まで、 唯一変わることのないものがあるとしたら、名前だと思います。
 そのひとの「すべて」を現せる気がします。
 なんてことを、色々と考えることになった話です。
 凪さま、リクエストありがとうございました!!!
 


2005.06.04





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