今はもう、どんな仕事だったか憶えていない。
 だが、初めて「それ」を使ったときのことを、私は忘れることはない。
 「それ」の名前は確か、「食切り」と、いった。






 こめかみを押さえ、ツォンは曖昧な記憶を辿った。
 デスクに置かれたコーヒーからは、力ない湯気が上がるばかり。
 細くなってしまった記憶の糸は、脆く、すぐに切れそうになる。だが、 それでも彼は、どうしても思い出したかった。
 あの工具を初めて使ったときのことを。






 ああ、そうだ。
 あれはたしか、どこか古びたビルだった。
 そこの何階かで、私とレノは仕事をしていた。
 ビル全体の電気供給をストップさせなくてはならない場面だっただろうか。 なぜそうしなくてはならないのか、それもまた、思い出せない。
 私はコードの束を手に取り、隣にいるレノを見た。
「何か、切るものをよこせ」
「切るもの、ですか、と」
 曖昧な返事をして、レノは持っていた小さな工具箱を開く。
 なぜだろうか、その工具箱には「なにかを切断するもの」がなかったように思う。 ペンチでも、カッターでも、なんでもいい。そう言った私にレノが手渡したのが、食切りだった。
「・・・なんだ、これは」
「切れそうなものって言ったら、これぐらいしか」
 使えないやつだと呟き、私はそれを受け取る。
 形は釘抜きのようなものだった。だが、挟みこむ部分が刃になっている。あまり 太いものは切れないが、今はそれしかない。
 私は赤、青、黄色といった配線を、それで挟む。
 横では、レノが手元を見つめているのが解った。
(嫌な名前だ。食切りなんて)
 そう考え、強く握った瞬間だった。
 鋭い痛みに、私は思わず食切りを取り落とした。
 コードを持っていた左手の人差し指から、血が流れている。切れたのではない。・・・食い切られて、いた。
「・・・・・・」
 床に落ちたそれは、滴る私の血を浴びていた。
 私の意志とは正反対に動いた、食切り。
 いや、意思があったのは、こいつではないのだろうか。
 おまえの言うとおりになど、動いてやらない。
 そう聴こえた気が、した。
「ツォンさん」
 名を呼ばれ、私は我に返る。
 冷静さを纏い、私は食い切りを拾い上げ、再びコードを持った。
 食い切られた部分は、嫌に疼く。
「俺がやりますよ、と」
 反対する理由もなく、私はレノに工具を渡す。
 レノはコードを挟みながら、小さく笑った。
「こういうのは、下手に出ないとだめなんですよ、と」
「・・・・・・」
 ぱちんという音がして、コードはあっけなく切れた。
 私は指にハンカチを巻きながら、それを見つめる。
「使ってやる、じゃなくて、使わせてくださいって思うんです」
 そうすると、うまくいくんですよ、と。
 そんな言葉を聴いて、私は溜息を漏らした。
 したてにでる?
 そんな言葉が、おまえの中にあったのか、と。






 コーヒーカップに口唇をあて、ツォンは思い出した記憶に対して再び溜息をもらす。 目の前でデスクワークをしているレノは、相も変わらず「下手に出る」という 雰囲気は微塵もない。
(幻聴だったのだろうか)
 再びこめかみを押さえるツォンの前に、1枚の書類が投げ出される。
 提出という言葉が不釣合いな、提出の仕方であった。
 それを今さらどうこう言うわけではない。
 差し出したレノを僅かに見上げ、彼は書類を手に取った。
「・・・期限を2日、過ぎているな」
「急ぎでもなかったはずですよ、と」
「だが、期限は守れ」
 眉間に皺を寄せたままのツォンを、レノは大袈裟に覗き込む。
 片手をデスクにつき、片手をポケットに入れていた。
 およそ、上司に対してする行動ではない。
「レ」
「ツォンさん」
 呼びかけた名が、自分の名で遮られる。
 ツォンはその時初めて、相手の眼を見つめた。
「人を使うなら、下手に出ないとだめですよ、と」
「な、にを・・・」
 自分の懐古を見破られたような心持に、ツォンは内心、動揺をする。
 それに構うことはなく、レノの手は動いた。
 人差し指と親指が、ツォンの喉に軽く触れた。
(食い切られる)
 そんな思考がよぎった一瞬、レノはさらに顔を寄せ、笑う。
「こんなに残業させて人を使うなら、それなりの手当てってもんが必要ですよ、と」
 言われた瞬間、彼は気付く。
 あの、思い出せぬほど以前に言われた言葉は、牽制だったのだと。
 そして同時に、自分に対する、ささやかな交渉。
 ・・・もっと早く、気付くべきだった。
 食い切られてしまってからでは、遅いのに。
「・・・で、どうします?」
 喉に触れていた手は、顎に移動する。
「『手当て』次第では、今後、うまく使わせてやりますよ?」






 ああ・・・、食切りが、私の血を受けて笑う。









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 初めて書きました、レノツォン。
 ずっと書きたかったのですが、だいぶ遅くなってしまったなぁ。個人的にはレノツォンレノでも良いです。 どっちでも好きです。

 食切り。
 ずっと漢字解らなかったのですが、ある日「食切り」だと知り、「なんてこわい 名前なんだろう」と思いました。



2005.05.15





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