助手席で、イリーナは流れる景色を眺めていた。
 春だというのに、なんだか薄暗い。
 そんな街でも、彼女は春という季節が好きだと感じた。
 隣で運転するこの男。
 彼に初めて恋心を抱いたのは、いつだっただろうか?
 その感情に気付いて、初めて一緒に乗った車は、仕事用の車だった。黒くて、色気も 何もないような車。それに乗り、2人で仕事場所に向かっていた。










 長い指が、ラジオのスイッチを入れる。
 彼女はその動きを目で追った。
 スイッチを入れると同時に流れてきたのは、イリーナが好きなアーティストの曲だった。 女性の声と、静かなバラード。春、この陽だまりには似合わないような 夜の音楽だ。
 彼女は少しだけ嬉しくなる。
「私、この曲すごく好きなんです」
 その言葉に、レノは口角を微かに持ち上げた。
「ふぅん」
 それだけの返事に、イリーナは言葉を繋げなくなってしまう。
 こんな、愛想のない男に恋などしてしまって。
 小さな後悔と、彼のささやかな笑顔を見たことの幸福。
 彼女は窓の外の景色を見つめた。
 暖かな春の日の午後。
 静かなエンジン音と、自分の好きな音楽と、恋する人。
 それだけの密室に、イリーナはときめいた。
 車というものは、喧騒の街中にいても、密室を作り上げる。
 狭い部屋の中。
 呼吸すらも共有しているような感覚。
 見るものも、聴くものも、何もかも。
 何もかも。










「イリーナ」
「あ、は、はい!」
「考え事とは、やるもんだな、と」
「えっ、な、何か話してたんですか?」
 気付くと、車は既に目的地に到着していた。
 レノは呆れたように煙草を取り出し、火を灯す。
 窓の隙間から煙が流れ出ると、男は小さく笑う。
「たまにはデートしたいって言ったのは、どこの誰かな、と」
「わ、私です・・・けど・・・」
「それも、ボートがいいとか乙女みたいなこと言ったのは?」
「・・・・・・私です」
 イリーナはちらりと窓の外を見る。このミッドガルでボートに乗りたいというと、 それは人工的に作られた狭い池の中で、ということになる。それでも彼女は、 1度はここに来たいと思っていた。
 閑散とした駐車場に、この車はぽつりと停まっている。
「行くなら、さっさと行くぞ、と」
 そう言ってレノはドアに手をかける。
 だが、イリーナは反射的にその腕を止めていた。
「・・・なんだよ」
「あの・・・、もう少し・・・、待ってください」
「はぁ?」
 もう少しだけ、この密室を共有したかった。
 以前の自分のような感覚が、今のイリーナを満たしていた。
 降りたくない、降りたら、この部屋はなくなってしまう。
「・・・別になんでもいいけど・・・」
 レノの腕が、イリーナの肩に回される。
 男は目を細めて、彼女に囁いた。
「もしかして、誘ってんのかな、と」
「なっ・・・!」
 囁かれた耳朶を赤くして、イリーナは男を押し戻そうとする。
 だが、有無を言わさずに塞がれる口唇。
 閉じられた瞳のせいで、春の日差しは遮られる。
 再び視界が明るくなったとき、レノが眼前で笑っていた。
「密室で男を引き止めるもんじゃねぇぞ、と」
 憶えておけ、と、言って、再びの口付け。










 そういうことは、早く言ってくれないと。
 私は、密室のルールなんて知らなかったのに。








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 車の話が続いてしまいましたね。
 すきなひとと初めて2人で車に乗ったときは、とてもどきどきしました。 同じ部屋に2人でいるより、どきどきしてしまう気がします。



2005.05.01





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