あなたは、目覚めてから涙を流すことがありますか?





 ***





 幸福な夢だった。
 そう思える夢のあとは、しあわせだ。
 今日もいちにち、がんばれるわ。
 そう思えるから。
 けれど、なぜかしら。
 涙が出るのは。
 幸福すぎて出る涙なのかしら。
 いいえ。
 そうではないのよ。
 その幸福が、あまりにも、あまりにも。





 現実とはかけ離れていたから。





 現実の恋人とは、かけ離れていたから。





 ***





 床に座り込んだレノを見下ろしたまま、イリーナはコーヒーを突き出した。小さく笑い、礼も言わずにレノは 受け取る。
 肩膝を立てて爪きりを握ったまま、男はカップに鼻を寄せる。同時に 眉間に小さく皺が寄せられるのを、その後輩が見逃すわけはなかった。
「今度はなんですか。薄くはないはずですけど」
「モカは嫌いだぞ、と」
「・・・そんなこと、今まで言わなかったじゃないですか」
「今まで飲んでないんだから、解るだろ、と」
 そんな無茶苦茶なことを言い、レノはカップを床に置く。
 突き返されたほうが幸せだろうコーヒーは、波打ちながら冷たい 床の上で沈黙していた
 イリーナは、コーヒーを見下ろす。
 そして、目を動かし、レノを映す。
 本当は寝癖隠しなのではないかと思う頭。
 このコーヒーをかけてやりたくなるほど、憎らしいひと。
 どうしてこんなひとが。
(こいびとなの?)
 ・・・いや、恋人なんかではないのかもしれない。
 それがひとつの夢だったのかもしれない。
(そのほうが、幸せだわ)
 哀しいけれど、きっと、とても幸せよ。
 焦点の定まらない瞳に気付いたレノは、イリーナの目の前でひらひらと手を振った。唐突に目に入ってきた煙草の 煙に、イリーナはきつく目を閉じた。
 痛い。
「何か考え事かな、と」
「・・・別に」
「俺に見惚れてんのかな、と」
「まさか」
 爪を切る姿になんか、と、言いそうになる。
 涙目のまま顔をそらし、イリーナは口唇を小さく尖らせる。
「・・・やっぱり、あの夢は、夢のまんまです」
「は?」
「・・・・・・私の夢の中で、いつも、先輩は優しいんです」
「・・・・ふぅん」
 願望?
 そう言われたイリーナは、激しく否定の頭を振る。
 そんな彼女の腕を掴み、レノは床に座らせる。
「どんな夢かな、と」
 再び、男の指は爪を切り始める。
 それを見つめながら、イリーナは贖罪する人間のような表情をする。ひとつの罪、恥、それらのものを 喋るような気持ちだった。
「先輩は、とても優しい顔で笑っていました」
「呆れたような、そんな顔だったんです」
「そうして、泣いている私を抱き締めてくれました」
「とても幸せでした」
「だから、起きたときに、哀しくなったんです」
「それが幻だから哀しいんじゃなくて」
「よく、わからないけれど」
 冷たい熱に浮かされたように、イリーナは喋り続けた。
 その間も、レノは爪を切り続ける。
 ぱちん、ぱちん、ぱちん、と、音が続いていた。
「・・・で、思い出し泣きかな、と」
「え・・・」
 イリーナは慌てたように頬に触れた。
 一筋の涙。
 朝に流した涙と同じ色の、哀しいもの。
 これだけのことに涙を流すなんて、情けなかった。
 どうしてこんな気持ちになるのか、彼女は解らない。
 この話の間に、目も上げない人のために。
 そんな人の夢なのに。
「おんなのこ、ってのは、みんなそうなのか、と」
「・・・・・・しりません」
「ばかみてぇだぞ、と」
「・・・・・・・・・・そう、ですね」
 残酷な言葉。
 女心なんて知らない人。
 誰よりも理解しているくせに、知らないふりをする人。
 こうして傷を抉るくせに。
 どうして。
 どうして、そんな顔で笑うの。
 夢の中と同じ顔で、笑うの。
「・・・わたし、おんなのこじゃないです」
「じゃあ、なにかな、と」
「おんな、です」
「・・・いまはちがうだろ、と」





 ほら。
 知っている。
 おんなと、おんなのこの違いも、全部。
 私のその境界線も、知り尽くしてる。





 レノの腕は、ひたすら優しくイリーナをかき抱く。
 夜の腕ではないと、イリーナは感じた。
 おんなに接しているときの腕では、ない。
 怖い夢を見て泣いてしまったおんなのこを慰める、腕。
 それは、朝の腕。
 その中で目を閉じながら、イリーナはもう1度涙を流した。
 顔も、声も、腕も、全てを使い分けるなんて、卑怯だ、と。








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2005.04.17





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