B C P

 





所有







 泣く方法は、忘れたと思っていた。
 涙は、どこかに置いてきたと思っていた。
 そうしないとてけないと、思っていた、のに。
 どうして今、おれは、泣いているのだろう。
 どうして、だっ、け?










「俺を好きになっても・・・、幸せにはなれない」
 だから、おまえは、もっと別の誰かを愛したほうがいい。
 もっと、報われる、誰かを。
 そんなことを、長次はいつもの口調で言った。
 言いながらも、手はいつもの仕事をしている。書物の山と向き合い、 三郎を見ることもなく、淡々と。
 立ったまま長次を見下ろしていた三郎は、息をしていなかった。
 ぼんやりと、焦点の定まらない眼球が、ゆっくりと動く。
 視界は次第に霞がかり、そして、滲んでゆく。
 小刻みに震えた口唇が、薄く開いた。
 なんとか息をして、そして、声帯を振るわせようとしたが、それでも 言葉は出てこない。
 歯茎に舌をおき、なんとか、息を吐く。
「そ・・・、・・・・・・」
 出てきたのは、それだけ。
 喋り方すらも、三郎は考えられなかった。
 いや、考えなければ、喋ることができなかったのだ。
「それは・・・・・・」
 長次が、やっと顔を上げる。
 その目に三郎が映った瞬間、彼の表情は動きを失った。
 何かを言おうとしても言えぬ三郎は、ただ、口唇を戦慄かせたまま、長次を見つめている。 その口唇が、不規則に動く。必死に、言葉を絞り出そうとしているように、幾度も。
「それ、は・・・、本心、ですか・・・?」
 言葉が出た弾みに、支えを失った涙が、自身の重さに耐えられずに床に滴る。1度出来てしまった 道には、とめどなく涙が流れ続けた。
 池が出来てしまうのではないかと、思いそうなほど。
 延々と。
「・・・鉢屋」
 その涙を流させているのは自分なのだと、長次は知った。
 言葉も出ぬほどの涙を、この少年に流させている。
 それは、理由はどうであれ、大罪なのではないだろうか。
 彼は、ひどく動揺した。
「・・・本心で、そんなことを、言うのですか・・・」
 三郎は、眉を寄せ、引きつるような笑みを浮かべた。
 呆れたように、疑うように、笑みを。
「せ、先輩は・・・・・・、知っているでしょう・・・?」





 おれは、あなたしか欲しくないのだということを。





「おれが、他の誰かを愛しても、・・・先輩は何も考えないのですね。驚きも、悲しみも、困りもせず、 それでいいのだと、納得できるのですね・・・」
 はっ、と、三郎が笑う。
 笑いながらも、涙だけは流れ続けていた。
「・・・伝えたと思ってたのに、・・・・・・なんだ」
 まだ、全然、伝わってなかったんですね。
 おれの、気持ちは。
「・・・鉢屋」
 不意に、長次が立ち上がる。同時に、三郎は身を引いた。
 次の瞬間には、三郎は既に笑っていない。
 苦しそうに、何かの痛みに必死に耐えるように、声ひとつ漏らさずに、きつく 眉を寄せたまま。
 机を挟み、長次の手が伸びる。
 涙に濡れた頬に、その指が届く寸前に、三郎は再び口唇を開いた。
「・・・想像してみてください」
「・・・・・・」
「おれが、別の誰かを愛するところを」
 あなたにするように、毎日会いに通い、
 あなたにしか見せぬ顔で笑い、
 あなたにしか言わぬ言葉を言い、
 あなたではない誰かの腕に抱かれるところを、
「想像して、ください」





 それでも、少しでも苦しくなかったら、もう、いいです。





 それでも、まだそれが「おれにとっての幸福」だと先輩が思うのなら、もう、いいです。





「・・・ねぇ、先輩」
 おれは、忍びだけれど、人間です。
 いつまでも、いつまでも、いつまでも。
 そんなことができるほど、大人でも、ないんです。





「・・・先輩」





「・・・先輩」





「鉢屋」





「少しだけ、今、驚いた」
「・・・・・・」
「俺は今、とんでもないことを、考えてしまった」
 いつものように、長次は言葉を選ぶ。
 冷静に、音もなく。
 だが、その時の長次の声には、その静けさの中から沸き起こるような 感情が滲み出ていた。
 三郎は、その滲み出て、溢れそうなものを待ち続ける。
「・・・言ってしまったら、戻れないかもしれない」
「・・・・・・はい」
「鉢屋は、幻滅するかもしれない」
 それでも、
「言わなければ、いけない気がする」
 止まったままの長次の指が再び動き、三郎の頬に触れる。
 その指こそが、震えていた。
 押し殺せぬ感情の波に、押されるように。















「おまえはおれのものだ」


















-----------------------------------------


 やっと報われる三郎の話。
 「好き」という意味がそのまま含まれた言葉での告白は、絶対にしないでおこうと決めていました。





2005.02.18





inserted by FC2 system