姫百合の君

















 宵の口。
 その晩は美しい満月である。
 三郎は月明かりが射す森の中を、1人歩いてゆく。
 探し物があった。
 真紅の姫百合である。
 先日のマラソンの途中だっただろうか、繁みの中に一輪のそれが咲いているのを 見つけて、ひどく目を奪われた。
 人知れず咲き誇るそれを見たとき、三郎は得も言われぬ哀しみに胸を支配された。 誰に気付かれることもなく、見られることもなく、 美しく自分の存在を語り続ける、その花。
 こんな夜なら、きっと、もっと美しく咲いているだろう。
 そう思いながら、三郎は繁みの中に入ってゆく。
 夏草の香りが、彼の鼻腔に染み入る。
 あまりに明るい夜に、三郎は目を細めた。





 手折ることは愚か、触れることも許されぬような美しさで、その姫百合は 繁みの中で凛と咲いていた。
「・・・何もしないさ」
 そう呟き、彼はその百合の傍にしゃがむ。
 木々の隙間から差し込む光で、夜露が花弁を彩っている。
 顔寄せて息を深く吸い込むと、緑の香りに混じり、強い百合の 香りが彼の身体に入ってゆく。三郎は目を閉じて、くらくらとするほどの 余香に浸る。
 その時、彼の花との無言の会話は、物音によって遮断される。
「鉢屋、ここにいたのか」
「長次先輩、なんでここに・・・」
 立ち上がり、繁みに入ってくる長次に首を傾げる。
「不破が教えてくれた。花を探しに行っていると」
「そ、そうですか。何か、急ぐ用事でも・・・?」
 思いがけぬ人物の来訪に、無意識に頬がゆるむ。  だが、それをおおっぴらに顔に出すほど、三郎は素直な性格でもない。
「・・・いや、別に用事はないんだが・・・」
 続きのない言葉に、長次は姫百合に視線を移す。
 ひとつ呼吸おいて、嘆息のような息が、彼から漏れる。
 身を屈める彼の隣に、三郎もまたしゃがんだ。
「これを、見たくて」
「・・・そうか」
 人知れずあなたを想う自分のごとく、この花は咲いているのです。
 そう言うこともできずに、三郎は苦笑する。
「いい花だ・・・」
 不意に、長次の指が姫百合に伸びる。
 その指は、女の肌を撫でるように優しく、姫百合の花弁の表面に触れる。それを 見たとき、三郎は無意識に歯を食い縛っていた。
 息が乱れる。
 その時、彼は2つの感情に板ばさみになっていた。
 姫百合が触れられることで、まるで自分が触れられている気持ち。そして、 その姫百合に対する、強い嫉妬。
 月の光が、自分の顔を照らさぬことばかりを、強く祈った。
「鉢屋」
「は、はい」
「この花は、・・・鉢屋に似ているな」
「・・・・・・え?」
 なぜ、と問うこともできず、三郎は彼の横顔を見据える。
 月光の悪戯だろうか、その時、確かに三郎は見た。
 長次の眼に、穏やかな笑みが浮かぶのを。





 そんな微笑み方はずるいと、三郎の心が叫ぶ。
 泣きそうになるのを堪えて、じっと目を伏せる。
 その時、姫百合の真紅の花弁が1枚、はらりと落ちた。風もないのに、 それはあまりに静かな動きで、2人は目を奪われた。
 三郎は我を忘れて、地面に落ちたその花弁を見つめる。
 だが、彼はそれにすら触れる勇気がなかった。










 帰り道、長次は高く昇った月を見上げる。
「鉢屋」
「はい」
「・・・鉢屋は、音もなく、泣くんだな」
 そう言った長次は、月から視線を戻し、三郎を見据えた。
 言われたことの意味が、先刻の姫百合の余香のように、柔らかく心に 滲み込んでゆく。
 三郎もまた、長次をまっすぐに見つめる。
「あなたが、泣かせたんです」
 あなたが、あの花の花弁を落としたのです。
 音もなく、静かに、涙を流させたのです。
 知っていますか?
 あの涙がどんなに哀しく、そして、幸福なものだったか。









「泣けよ泣け」の続きみたいなものです。

 あの姫百合が三郎であることを、長次は解っていました。
 だから、姫百合が花弁を落としたのは、三郎の涙だと言えたのです。
 相変わらず三郎は片思いですが、前回よりは少し幸せではないかな、と思います。 片思いから両思いになるまでの過程って、ほんとに好きです。





2005.01.03









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