泣けや泣け

















 思ってくれぬ人を思うのは、なんと甲斐のないことだろうか。










「・・・ろう、三郎!」
 頭の下から湧き出す声に、三郎は瞼を持ち上げる。
 樹の下で雷蔵が呼んでいたらしい。
「またこんなところで寝てたのか?」
「ああ、うん」
 気の抜けた返事で、三郎は身体を大きく伸ばす。
 陽はそれほど傾いでいない。そんなに眠ってもいなかったのだろう。何かの夢を 見たようだったが、それが思い出せず、彼は頭を軽く手のひらで叩く。
「何してるの?」
「いや、なんか夢見た気がしたんだけど・・・」
 言って、三郎は枝から飛び降りる。2人は並んで歩き出す。
「夢って、すぐに忘れるからなぁ」
「うん。思い出せない」
 2人の足が向かうのは図書室である。雷蔵の当番の日には、三郎も自然とくっついていく ようになっていた。
 天気がいいからか、図書室にいる生徒は少ない。雨の日なら、退屈した生徒で 溢れかえってる場所である。雷蔵にとっては、図書室に人がいないのは寂しいかもしれないが、 三郎にはそのほうが気が楽であった。
「あっ、いけない!」
 図書室に入った雷蔵は、口に手をあてて眉を寄せる。
「どうした?」
「今日までに提出しないといけない課題があったんだ。寮のほうの 部屋に忘れてきたから、早く取りに行かないと・・・」
「じゃあ、俺が替わりにやってるから、行って来いよ」
 そう言い、三郎は雷蔵の肩を押す。済まなさそうに「ありがとう」と言った雷蔵は、 図書室から小走りに出て行った。
 そんなに人もいないのだ。少しぐらい、雷蔵の代わりはできる。
 椅子に座り、三郎はまたひとつ、大きく身体を伸ばした。










「・・・あ」
 雷蔵と入れ替わりで部屋に入ってきた長次を見て、三郎は伸ばしていた腕を引っ込める。
 長次は首を微かに傾げた。
「・・・鉢屋、だよな」
「そうです。雷蔵、ちょっと用事があるから、俺が替わりに」
 それに不満を示すこともなく、長次はひとつ瞬きをする。
 表情が顔に出ない彼の意思を読み取るには、慣れが必要だ。
 三郎は、仕事を始める彼の動きを目で追った。
 変装をする人間の癖というものか、三郎は人の動きや表情を観察するのが 癖のようになっている。だが、その時は、少し違った。
 癖でも無意識でもなく、ただ、目が吸い寄せられる。
 意識的に、だが無意識に、知りたいと思う感情。それに三郎が気付いたのは、 もうどれ程前だろうか?
(思ってくれぬ人を思うのと、見つめてくれぬ人を見つめるのは、同じ)
 その悲しみを知ったのも、同じ頃だった。
 それでも、己の気持ちに気付いたのなら仕方がない。
 思わぬわけにはいかない。
 見ぬわけには、いかない。










「鉢屋、頼んでもいいか」
「あっ・・・、はい」
 突然向けられた視線に、不覚にも三郎の声は上ずる。
 席を立ち、本棚の前に立つ長次の元にゆく。
「上の棚に本を入れたいんだが・・・、できるか?」
「勿論です」
「下から、本を渡すから」
「はい」
 梯子に何段か登り、三郎は本と本の隙間を開ける。
 下から差し出される本を受け取り、そこに丁寧に詰めてゆく。
 手渡される本は、単調に本棚に立てられてゆく。
 それだけのことなのに、三郎の呼吸は希薄だった。
 背後にいる長次の眼は、どこを見ているのだろうか。自分を見ているのか、 それとも整然と並ぶ書物たちを見ているのか。
(俺ならいいのに)
 一瞬の、確かな願い。
 だが、それを背後にいる本人に伝える術はない。
(いつまで俺は、こんな)
 見つめ続けるだけのことを。
「先輩」
 無言の長次が目を上げる。
「あと何冊ですか」
「・・・3冊だ。そこに全部収まるな?」
「いいえ」
 三郎は受け取った本を手に持ったまま、長次を見下ろす。
「収まりません」
「・・・そうか?」
「俺の気持ちは、収まらないんです」
 あまりに唐突な言葉に、長次は眉ひとつ動かさなかった。
 どれほど小さな表情の違いも見逃すまいとした三郎すら、彼の 内面の心情を知ることはできなかった。
 波ひとつない水面のような沈黙。
 その静かな水面に、三郎は身を投げ出した。
 沈黙の糸はぷつりと音を立てて切れる。
「鉢屋」
 梯子から飛び降りた三郎は、振り向くこともなく図書室から走り去った。・・・正確に言えば、 それは、沈黙という恐怖からの逃亡。










 嫌なことがあったら、眠ればいいんだよ。
 いつも、雷蔵はそう言っていた。
 今なら解ると、三郎は樹の上で膝を抱える。陽がくれて、学生寮にいくつもの 明かりが灯ってゆく。今頃、雷蔵は自分を探しているかもしれない。だが、 雷蔵なら、すぐにこの場所だと気付くだろう。
(雷蔵が来たら、話そう)
 焦って、バカなことをしてしまったことを。
 もう、図書室には行けないということを。










 樹上の三郎の真下で、かさりと草が動く。
(雷蔵)
 膝を抱えたまま、彼は目だけを開ける。
「・・・雷蔵、俺、ばかなことしたんだ」
 ひとつ呼吸を置いて、再び目を閉じる。
「想われたいなら想うしかないのに、・・・焦って、1人で突っ走って、ほんとに ばかみたいだった」
 後戻りはできないけど。
 そう呟いた三郎の前に、相手が座る気配がする。
「・・・どうすれば、鉢屋の気持ちは収まる?」
 雷蔵ではないその声に、三郎は顔を上げた。暗がりでもわかるほど、今まで 散々見つめて続けてきた相手が、そこにいる。
 長次であった。
「せ・・・」
 息が止まりそうなほど、三郎は驚愕していた。
 表情を変えないようにと努めたが、既に、泣きそうになるほど 心臓が音を立てている。
「い、今の・・・、聞いてたんですか」
「・・・ああ」
 何も言えずに、三郎は顔を伏せる。
「鉢屋」
 呼ばれた三郎は、眉を寄せたままちらりと長次を見る。
 いつもと変わらない表情で、相手は三郎を見つめていた。
 それは、常に三郎が相手を見つめているのと、同じ目。
「鉢屋の気持ちは、どこに収まりたいんだ?」
 まさか、本棚ではないんだろうが。
 そう続ける長次の声は、ひどく穏やかで、三郎の心を締め上げた。
 ああ、自分に、少しでも未来を与えてくれるのか、と。
 そんな長次の優しさに、三郎は顔を上げる。
 今度は、目を伏せることも逸らすこともなく、まっすぐと。
「・・・いいんです、それで」
「え?」
「そうして、まっすぐに、見てくれれば」





 そうすれば、いつか、本当にあなたが俺を想ってくれる日が来るかもしれない。 だから、そのまま。
 その時には、俺の心は収まっているはずです。
 あなたの胸の、どこかに。









 リクエストをくださった真崎さまへ。

 三郎→長次、ということで。
 この時点ではまだ片思いですね。続きを書きたくなってしまうような 終わり方にしてしまいました。楽しかったです。

 和歌シリーズその2です。
 イメージを膨らませるキッカケになった和歌は、笠郎女の歌です。




2005.01.03









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