懸け隔て

















 兵助の部屋に入った喜八郎は、その状態に目を丸くした。
 数十冊、いや、百冊も近いだろうか、それだけの本に囲まれるようにして、 兵助は書物を読み漁っている。その背中に、喜八郎は声を懸けようか懸けまいか、逡巡する。
 随分と集中しているらしく、襖が開いたことにも気付いていないらしい。出直そうかと思ったが、 なんとなく、引っ込めずにいた。
 構ってくれとも言えず、集中の糸を切らしてしまうのも忍びなく、喜八郎は 戸口でただ、その背中を見据え続ける。
 この人は、いつになったら私に気付くのか。
 果てなく念じたとしても気付かぬとしたら、私は。



「そういえば、この間喜八郎に借りた本さぁ」
 唐突に、その言葉は出てきた。
 半刻近く立ち尽くしていた喜八郎は、その唐突さに戸惑う。
 まるで、ずっと一緒にいた相手に会話を振るかのように、兵助の言葉は自然に出てきていた。
「けっこう面白かったよ。勉強にもなったし」
「・・・そうですか。良かった」
「また何か面白いの見つけたら、貸してくれる?」
 ようやく振り向いた兵助は、いつもと何ら変わることのない笑顔である。だが、喜八郎は 返事の言葉はおろか、笑顔すら出てこない。
「私がいたことに、気付いていたんですか」
 ようやく出てきた言葉は、これだった。
 首を傾げて、兵助は書物を伏せる。
「足音で気付いてたよ」
「じゃ、じゃあ・・・」
 再び、喜八郎は言葉を飲み込む。
 兵助は自分を囲む書物の山を掻き分けて、近くにあった座布団を敷く。その表面を 軽く叩いて、喜八郎に座るように促した。
 かしこまったように鎮座した喜八郎は、人形のようにおとなしい。
「綾部はさ、賢いよな」
「え?」
「多くを喋らないから」
「・・・そうでもないです」
 兵助は戸惑いの晴れぬ喜八郎を見つめたまま、指で頬を掻く。
「賢いけど、だめだ」
「・・・え・・・」
 顔を上げた喜八郎の顔には、翳りがさしている。
 普段ははっきりと否定的な単語を口にする兵助ではない。それだからか、 突然に「だめだ」と言われた喜八郎は、さらに戸惑いを表に出すことになる。
「綾部は、俺といるときにも忍者してるのか?」
「そ、そんなつもりはありません」
「じゃあ、なんでずっと黙ってたんだよ」
「それは・・・、集中の糸が切れたら、悪いと思って」
「もう半分の理由は?」
「え・・・」
 心臓を鷲掴みにされたように、喜八郎の肩が動く。
「俺のこと、試してなかった?いつ気付くかって」
「そ、れは・・・」
 息がかすれる。
 助けてと、心の中の自分が叫ぶ。
 そんな、困却したままの彼の手に、兵助が触れる。喜八郎を覗き込んだ顔が、 悪戯な笑みを湛えていた。
「残念。俺はずっと気付いてたよ」
 今度は、喜八郎の集中の糸が切れる番だった。
 兵助は可笑しそうに彼の頭を撫でる。
「あんなに長い時間立ってるなんて、逆にすごいよなぁ」
 あっけらかんと、彼は笑う。
 頭を撫でられながら、喜八郎は脱力感に項垂れた。
「・・・疲れました」
「ん?そりゃそうだろ、あんなに立ってれば」
 そうじゃなくて、と言おうとしたが、それをやめておくことにした。いつものように 笑う兵助が、なんだか懐かしい。
「・・・綾部は、俺に遠慮しなくていいんだよ」
「遠慮・・・」
「してるだろ。さっきもだけど、じーっと我慢して」
 頭の上に乗っていた手が、頬に触れる。
「俺は、綾部に色々話してほしいし、さっきも、早く部屋に入ってきてほしかった。だから、 遠慮とか、いらないよ」
 その言葉に、喜八郎は首を傾げる。
「でも、多くを喋らないのは賢いんじゃないんですか?」
「それは一般論!俺たちは別!」
「・・・別、ですか」
「別」
 都合のいいように喜八郎を丸めこみ、彼はにっと笑う。



 別。
 その一般からの「別」は、決して悪い意味ではない。
 懸け隔たれた関係のそれは、むしろ幸福な別離。












 相手を想うつもりで、自分が我慢しているつもりで、言いたいことも言わずにいて、 そうして理解し合える関係など、ない気がするのです。
 いつかそこに、確かな懸け隔てが現れる気も、するのです。




2004.12.25









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