懐柔

















「昨日、雨にあたったのが良くなかったな」
「じきに良くなりますよ。久々地先輩は、元気だから」
「今は元気じゃない」
「・・・そうでしたね」
 喜八郎はふっと笑い、床の中で天井を見上げている兵助の額に触れる。額に 張り付いた髪の毛を払い、傍にあった手ぬぐいで汗を拭く。
 いつもなら、ふざけた詭計で相手を翻弄しているところである。だが、病人になってしまった 兵助を前に、彼はただおとなしくしているしかない。枕元に座り、彼が望むことを してやるためだけに。
 外では、しとしとと雨が降り続いていた。



 軽く肩を揺さぶられて、兵助は瞼を持ち上げる。
 喜八郎が覗き込んでいた。
「そろそろ、薬湯を飲む時間です」
 襖の外はほの暗い。夕暮れは終わったらしい。だが、それでも雨が降り続いていることだけは わかった。
 兵助は身体を起こし、喜八郎の差し出した薬湯の入った湯のみを覗き込む。いつもながら、 不味そうな色である。
「俺、これ嫌いなんだよな・・・」
「好きな人はいませんよ」
 だが、そこで飲むのを躊躇うほど、兵助も子供ではない。すぐに一気に飲み干してした。喜八郎は 別の湯のみに白湯を注いで手渡す。
「どうぞ」
「ん」
 口直しにそれを飲み、兵助はやっと顔をしかめる。
 やはり旨いものではなかったらしい。
「綾部、頼みがあるんだけど」
「はい?」
「口直し」
 その言葉に喜八郎が反応する間もなく、兵助の腕が彼をかき抱く。そして与えられたのは、 薬湯と同じ味の口付け。
 口唇を離した後、喜八郎は目を閉じたまま顔をしかめた。
 兵助は可笑しそうに笑う。
「嫌そうだな」
「・・・嫌ですよ、こんな、不味いの・・・」
 そう言っても、喜八郎は白湯を飲もうとはせずに、手の甲を口元にあてて、肩で笑う兵助を睨んだ。



 兵助の風邪が治った頃、次に喜八郎が床に伏せった。
「・・・久々地先輩のせいですよ」
 床の中から、喜八郎が兵助を睨む。
 熱のせいで頬が上気していた。
「ほら、薬湯」
 兵助は喜八郎の背中に手をあてて、身体を起こす。重そうに身を起こして、 喜八郎はそれを受け取る。
 僅かに逡巡したが、飲まねば治らない。 それに、横にいる兵助の前で『飲みたくない』というのも嫌である。
 喜八郎は兵助がしたように、息を止めて飲み干した。
 原液の苦味は想像した以上である。
「・・・こんなまずいキ口付けをされて、しかも風邪までうつされるなんて、思ってません でしたよ」
 拗ねたように、喜八郎は言う。
 兵助はくっくと喉を鳴らして笑った。
「仕返しでもするのか?」
 そう言われ、喜八郎は兵助の襟を引き寄せる。あと僅かで口唇が触れるところで、 喜八郎は顔を背けた。
「・・・やめておきます。きっと、先輩は薬湯の味にも 慣れたでしょうし、風邪もうつらないでしょうから」
「そうか」
「そうです」
「残念」
 また可笑しそうに、兵助は笑う。
 頼りない姿を見られるのも嫌だったが、こうして奸計にはまってしまう自分もいやだと、 喜八郎は思う。
「仕返しなんて、ずるいですよ」
「・・・ま、そのかわり」
 ちゃんと傍にいてやるから。
 そう囁く兵助の声は、喜八郎の存外に優しかった。
 熱のせいか、顔が熱い。薬湯の苦味のせいか、うまく笑えない。そんな 理由をつけないと、喜八郎は彼を正視できなかった。













 綾部みたいな後輩がほしいデス!!!
 と思いながら書いたら、こんな話になりました。
 綾部が風邪でふせったら、きっと私も気持ち悪いぐらい優しくしてしまうでしょう。 ニヤニヤ。




2004.12.25









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