やさしい、てのひら

















 理由もなく、見入ってしまう。
 瞬きや、指の動きや、微かな表情の動き。
 立ち方や、歩き方や、座り方。
 顔の作り、身体の線、手の甲に見える血管の形。
 三郎は、気付けばいつも、長次を見つめていた。
 彼はほとんど、自分を意識する様子もないというのに。
 この、ただ見つめてしまうことが何を意味するのか、三郎は未だ気付いてはいなかった。










 ひらり、と、揚羽蝶が図書室に舞い込む。
 生徒が帰り始める静かな夕暮れの中で、その羽は橙色に染まって色を変えている。 三郎は、雷蔵と同じように机を整頓する手を止めて、その蝶に見入った。
 しかし、これから図書室を閉めるというのに、入ってしまったのでは 明日の朝まで出ることはできない。
 三郎は、なんとか捕まえて外に出そうとする。
 だが、蝶は追えば追うほど逃げ惑う。
 何もしないのに、と、伝えられるはずもなく。
 三郎が困ったように息をつくと、長次が彼に手のひらを向けた。
 それは、動くな、という意味のようだった。
 そう解釈した三郎が、そのままじっと立つと。
 あてどもなく飛び回っていた蝶が、ぽつりと三郎の頭に止まる。
 彼は、思わず息を止めた。
 長次が近づいてくる。
 目の前に、立つ。
 息を詰めたまま、三郎は彼を見上げる。
 長次の大きな両手が、そっと伸びてきた。
 その手のひらは、三郎の頭上でぱたりと閉じられる。
 長次はゆっくりとその手を窓の外に伸ばした。
 開いた手のひらから、まるで手品のように蝶が羽ばたいてゆく。
 三郎は、できる限り静かに、止めていた息を吐き出した。
 蝶を見送り、振り向いた長次の表情は、いつもと変わらない。
 三郎は尋ねた。
「なぜ、羽をつまんで捕まえなかったのですか?」
 普通はそうするのに。
 面と向かって尋ねられ、長次は微かに首を傾げる。
「・・・羽が、壊れそうで・・・」
「・・・・・・羽が?」
「・・・小さい頃、蝶を捕まえた。・・・すぐに逃がすつもりだったが・・・、 俺が羽をつかんだせいで、それは砕けて・・・飛べなかった・・・」
 だから。
「羽は、掴みたくない・・・」
 耳を澄まさなければ聴こえないほど、低く静かな声。
 三郎は、自分の身体の中で、どく、と響くを音を聴く。
 衣の合わせを抑え、立ち去る彼の背中を見つめる。
 雷蔵に、最後の戸締りをするように伝え、長次は振り向くこともせずに図書室を出ていった。










「・・・三郎?どうしたの?」
 畳に座り込んだ三郎は、頭を抱えたまま動かない。
 目を閉じたまま、じっと、先刻のことを思い返す。
 あの両手のひらが近づいたとき、まるで、その手が 自分の顔に触れるのではないかと、錯覚した。
 吐息がかかるほどに近く。
 触れるか触れないかほどの微かな感触。
(あのひとの手は、やさしいんだ・・・)
 思い、泣きそうになる。
 触れられたいと、心のどこかが望む。
 瞬間、三郎はひどく狼狽した。
 ゆがめた顔を上げて、彼は雷蔵の腕を掴む。
「雷蔵」
「三郎、具合悪いの?」
 あまりにも辛そうな顔に、雷蔵は彼の肩に手をかける。
 泣きそうになるのを必死で堪え、腕におい縋る。
「雷蔵・・・、なんでだろう・・・なんで・・・」
「・・・三郎?」
「俺は男なのに・・・」
 男なのに。





 あのひとの、あの手のひらを、ほしいと。
 思ってしまったんだ。





「それは・・・いけないことなんだよなぁ・・・」
 おかしいもの。
 とても、おかしいもの。
 両手で顔を覆い、三郎は掠れた声で呟く。
 それは、雷蔵に言うというよりも、まるで自分に対しての牽制のように響いた。
 雷蔵は黙ったまま彼の隣に座る。
 そして、ふふっと、笑った。
「・・・三郎は、恋をしたんだね」
 恋を。
 優しい声が三郎の耳に届く。
 責めるでもなく、非難するでもなく、止めるでもなく。
 ただ、恋をしたんだね、と。
 その言葉に、三郎は顔を覆っていた手を外す。
 隣では、やはり雷蔵が微笑んでいる。
 どうにもならない渇望と、哀しみと、切なさ。
 物語にあった表現が全て当て嵌まる今の状態を「恋」だというのならば、 それは間違いのないことであった。
 だが、急に「それは恋だ」と言われても、今の三郎には それを受け止めるだけの余裕がない。
「でも、雷蔵、俺は・・・」
「考えてみて」
 考えてみて。
 好きだと想うひとと、話せるということ。
 触れられるということ。
 同じように愛してもらえるということ。
「それって、とても、幸せだと思うんだ」
「・・・・・・」
「きっと、他の全てがどうでもよくなるぐらい」
 ・・・まるで、三郎の懸念を全て知ったかのような言葉。
 下口唇を噛み締めて、三郎はその友人を見つめる。
 ただ、静かに、自分の砂粒のような恋心を肯定してくれる、友を。
 再び泣きそうになるのを堪え、三郎は膝に顔を埋めた。
「なぁ、雷蔵・・・」
「ん?」
「男が、男を好きでいても、いいのかな・・・」
「誰かが誰かを愛することを、誰が責めるの?」










 ああ・・・、あのひとが俺だけを見てくれたら。
 あのやさしい手が、俺に触れてくれたら。
 あの静かな声が、囁いてくれたら。
 おれは誰に憎まれても、責められても、非難されても、何も怖くないと、 思えるのではないだろうか。
 それが罪だとしても。
 背徳だとしても。
 











2007.03.30









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