物語の中でしか知らぬもの

















 彼は同じ年頃の誰よりも、多くの感情を知っている。
 それは、顔を誰にも見せぬという生き方のせいである。
 14という歳でありながら、彼は必要以上の哀しみに身と心を晒し続けて生きてきた。
 誰よりも多くの顔を持っているにも関わらず、どれひとつとして 自分の顔ではない苦しさを、知っているか?
 千の顔よりも、たったひとつの自分の顔が欲しいと、望んだことがあるだろうか?
 他人として生きることの苦しさ。
 己という存在を消してしまうことの、辛さ。





 しかし、多くを感じてきた少年も、未だ知り得ない感情がある。

 恋。

 という名の、始末に負えない感情だ。





***




 雷蔵は、恋したことある?
 尋ねた少年は、何の気持ちもなく、そう言ったつもりだった。
 だが、問われた雷蔵は、何か深い意味でもあるのかと言うように、 三郎の横顔をしげしげと眺めてくる。
「どうしたの、三郎。恋したの?」
「いや、そうじゃなくてさ、したことないから訊いてるんだけど」
 図書室の貸し出し当番の仕事をしている雷蔵の邪魔をしないように、 三郎はいつもここで本を読んでいる。
 歴史の書物から、恋物語まで、多くを読んできた。
 雷蔵は、その日の三郎の手元を覗き込む。
「今日は、そういう話を読んでるの?」
「うん。昨日の続き」
「おもしろい?」
「わかんない」
 三郎の言葉に、なんだ、という顔をして、雷蔵は肩を竦める。
「おもしろいんだと思った」
「だってさ、みんな辛いとか、哀しいとか、切ないとかばっかりなんだよ。恋って、 なにがいいものか解らないじゃないか」
「みんなが恋に夢中になるのが、不思議だって言いたいの?」
「まあ、そんなとこ」
 怪訝そうに頁をめくってゆく、自分と同じ形の横顔を見ながら、雷蔵はくすりと笑う。
 雷蔵は、まだ、本当の恋というものをしたことがなかったが、きっと、とても 美しく幸福なものだと思っている。
 思っているし、信じてもいる。
 しかし、それを三郎に言う気もなかった。
「三郎もいつか、恋したら解るんじゃない?」
 急に覗き込まれ、三郎はむっと顔を引く。
「あんまり、したいと思わないけど」
「恋はするものじゃなくて落ちるもの、って、どこかで読んだよ?」
「落ちたら這い上がればいいじゃないか」
「もう!黙って落ちてればいいじゃない」
「忍者なのに、黙って落ちていていいのかよ」
「なんでそこで忍者が出てくるの!」
 小声で話していたはずが、気付くとふたりは大声を張り上げていた。
 背後からの咳払いに振り向くと、長次が無表情で立っている。
 ふたりは肩を竦めて「すみません」と呟いた。
 長次が去るのを確かめて、三郎は雷蔵を肘でつつく。
「いつも思うけど、あのひと怖いよな」
「長次先輩が?悪いひとではないけど・・・」
「あんなひとも、恋に落ちることがあるのかな」
 怪訝そうに長次の背中を見つめながら、三郎はそう言う。
 その男が、いつか、自分を恋というものに突き落とすことになろうとは、 なにひとつ知らずに。





***




 はやくこないかなぁ、と、三郎は口唇を動かす。
 声は出さない。
 隣には長次がいるからだ。
 しかし、彼は気付いていた。
「何か言ったか」
「い、いえ、なにも・・・」
 三郎は微かに息をつき、ぱたりと本を閉じた。
 少し遅れるから先に行ってて、と、雷蔵に言われて図書室に来たものの、 そこには既に長次の姿があった。
 結局、今はこうしてふたりで並んでいるしかない。
 三郎は、手持ちぶさたに、長次の手元を見つめた。
 骨ばった、大きな手。
 縄標がとても上手だと、聞いたことがある。
 その手は、今、音もなく本を分類している。
 返されてきた本を分け、後から棚に戻すのだろう。
 三郎は、彼の手つきの丁寧さに驚いた。
 仕事が丁寧だということは、雷蔵から度々聞いていたが、実際 見ていると、本当にその通りである。
 これほど大切に書物を扱うひとを、三郎は見たことがない。
「・・・どうかしたのか」
 思わず食い入るように見つめていた三郎は、唐突に問われて勢いよく身を引いてしまった。
「あの・・・、仕事が丁寧だな、と、おもって」
 そう言っても、長次は笑みのひとつも零さない。
 視線はかすかに三郎に向けたものの、それはすぐに手元の本に戻される。作業が中断されたのは、 ほんの一瞬のことであった。
 呼吸の音もなく、紙が擦れる音もしない。
 時だけが、無音のままゆっくりと流れてゆく。
 長次という人間の持つ静けさを、三郎は初めて知る。
 聴覚に何一つ訴えてこない人間。
 それは決して不快ではない。
 三郎は、長次の横顔を見つめ、知る。
(このひとは、やさしいんだ)
 きっと。
 心の中でそう付け加えてから、彼はしばらく長次の手を見つめ続けた。










 おわびに、と言って雷蔵がくれたのは卵焼きであった。
 結局、雷蔵は図書室に来ることができなかったのである。
 苦手そうにしていた長次とふたりにさせてしまったことで、三郎は 不機嫌になっているかと思っていた雷蔵だが、 意外なことに、彼はそうでもなさそうであった。
「長次先輩って、本当に仕事が丁寧なんだな」
「そうでしょ?」
「することもないし、ずっと見てたよ」
「ずっと?」
「うん」
「2時間も?」
「まあね」
 ほうれん草のおひたしに醤油をかけながら、三郎は笑う。
「ずっと見てても、退屈じゃなかったから」
「・・・そう」
 その答えに、雷蔵は少なからず驚く。
 三郎は、退屈なものを好まない。
 そんな彼が、2時間も長次の仕事だけを見ていたというのだ。
 何も喋らず、表情も変えず、ひたすら静かに仕事をする彼をただ見ていて、 それが退屈ではないという人間は少ない。
(それを、三郎が)
「食わないのか?」
「えっ、あ、うん、食べるよ」
 笑い、箸を味噌汁につける。
 そしてもう1度、雷蔵は三郎を見つめた。
 なぜかは解らない。
 だが、雷蔵の胸は確かに、幸福な予感に満たされていた。









 一定時間が経つといつも、三郎→長次のお話を書きたくなります。



2007.03.29









inserted by FC2 system