月を呼べ

















 気付く。
 そもそも自分は、彼が何を望むのか知っているのだろうか。
 何も言わぬ彼を、自ら勝手に解釈していたのではないだろうか。
 




***




 どこかで音がする。
 風鈴の音。
 攫われるような、切な音だと、長次はいつも思う。
 誰が、どこに吊るしているのかは知らない。
 だが、ふと静寂が訪れたときに、耳に届く。
 それは、まるで幻聴かと思うほど心地よく響く。
「風鈴ですね」
 隣で、鬘の髪の毛を梳いている三郎が、手元に目を落としたまま言う。
 聴こえていないかと思った。
 そう返すと、彼は少しだけ口元に笑みを湛える。
「誰のものなんでしょうね」
「・・・鉢屋も、知らないのか」
「1度、探してみたことがありますが、解りませんでした」
 西を行けば東から聴こえ、北へ向かえば南から響く。
「そんな音でした」
 目的を果たせなかったはずであるのに、三郎はどこか幸福そうに言う。
 歳相応とは言い難いほど、大人びた声であった。
 長次は、時にその声に惑わされてしまう。
 油断してしまう。
 彼は、まだ、十四の少年であるのに。





 探し物か、と、頭上から声が降る。
 長次が木々の隙間を見上げると、声の主が笑っていた。
「仙蔵」
 ざっと地面に降り立った男は、軽く膝を払う。
 額に汗が浮いているところを見ると、トレーニングをしていたらしい。彼が裏山でトレーニングをしている 時は、必ずと言っていいほど、文次郎に付き合わされている時である。
 だが、その文次郎の姿は、今は見えなかった。
「で、探し物か?」
 長次はできるだけ耳を澄ませながら、首を左右に振る。
 ここまで頼りにしてきた微かな音色を逃したくはなかった。
「・・・ふうん、自力で探したいもの、か」
 それが何なのか理解したように、仙蔵は微かに笑う。
 長次は、そんな彼にそっと手のひらを向けた。
「何も言うな」
 もう1度「ふうん」と呟き、仙蔵は口唇に人差し指を当てた。
「じゃあ・・・、ひとつだけいいことを教えてやろう」





***




 月を呼べ。
 月を呼べ。
 その声で呼べ。
 過去を問うために、ここへ呼べ。





***




 幾度目だろうか、と、三郎は考える。
 宵闇の森の中を、長次とふたりで歩いてゆく。
 既視感ではない、不思議な感覚を憶えながら、三郎は目の前の男についてゆく。
 夕飯が済んだとき、唐突についてこいと言われただけで、三郎は彼が何をしようとしているのか、 なんの見当もつかない。
 だがそれも、今となっては、どこか楽しみですらある。
 そう、三郎が感じていたとき。
「俺は、鉢屋の望むものが、解らない」
 不意に、目の前の背中が語る。
 え、と、問う暇もなかった。
「解らないが、きっと、鉢屋に尋ねても、教えてはくれないだろう」
 だから。
「探した」
 言葉尻と同時に、凛とした音が間近で響く。
 三郎は驚き、すぐに顔を上げた。
 風鈴。
 それは、まだ葉が青い紅葉の木に結ばれていた。
「これ・・・」
 鈴を鳴らす風が、それまで空を覆っていた雲を払う。
 そして。
 照らし出され、浮かぶ。
 一本の紅葉の樹。
「月を呼べ。
 月を呼べ。
 その声で呼べ。
 過去を問うために、ここへ呼べ」
 長次の詠んだ言葉に、三郎は首を傾げる。
 しかし、長次は何も言わずに、ただ照らされた樹を見上げている。
 鬱蒼と木々が茂る森で、この一本だけがはっきりと月光を受けている。
 月を呼べ。
 その声で。
 言われたままに、そこで風化するのを待ちながら、唄う。
 光の中で、己の過去を問う。
「・・・先輩」
 冷たい金属と、元の色がわからなくなるほど色褪せた布に触れながら、 三郎は男の名を呼ぶ。
 長次先輩。
「俺に尋ねなくても、先輩は全てを知ってる」
 何を望むのか。
 全てを知ってる。
「だから、俺は言わないだけです」
 そう伝える三郎の声は、鈴の音に混じって消えそうに静かだった。
 その背中に触れることもせず、肩を抱くこともせず、長次はただ、細い指を握るともなく握った。





 この時間が過去になったとき。
 問うことはないだろう。
 その時の行動や、判断が正しかったかなど、問いはしない。





 月を呼べ。
 月を呼べ。
 その声で呼べ。
 今ある幸福を見よと、
 呼べ。









 冒頭の三行が頭に浮かんでから、一息で書き上げました。

 少しだけ補足。
 なぜ、仙蔵が風鈴の場所を知っていたかというと、彼がその音を探すひとだったからです。探さないひとは、 その音を気にも留めない。知らないまま日常を過ごす。
 求めるひとだけが辿り着ける音です。
 仙蔵が詠んだ詩は、かつて、同じように音を探そうとしたひとから聴いたもので、 元は誰が詠んだのか、今となっては誰も知りません。
 そんなことを書きたかったのですが、邪魔くさいので省きました。



2007.03.22









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