これほどの愛を

















 彼は、いつも背後から訪れる。
 背後から抱きすくめ、気付かぬうちに求められる。
 天井から滴る雨漏りのような、静けさ。
 気付いたときには既に、床は濡れ、途方にくれる。
 そんな腕だと、三郎はいつも思ってしまう。
 黒く、大きな影に抱きすくめられたまま、彼は目を閉じる他ない。
 振り向く勇気がないのだ。
 彼の愛に正面から向き合うのが、とても怖くて。





 彼は、いつも背後から訪れる。
 背後から抱きすくめ、相手が気付かぬうちに、求める。
 瞬間の、驚いたような項がとても好きだった。
 いつだったか見つめていた背中を露わにするのも、とても。
 衣が滑り落ちた肩も、長次にとっては、全てがいとおしい。
 普段生活をしているときより、ずっとしなやかな身体。
 こうして背中越しに甘い声を聴くのは、悪くない。
 だが、本当は、その顔を見たかった。
 正面から誘うほどの勇気が、なかっただけで。





「鉢屋」
 呼ばれ、赤くなった頬が微かに動く。
 ほんの少しだけ、振り向こうとしたような動きだった。
「・・・鉢屋」
「はい」
 俯きがちの声。
 長次は彼を抱いている腕を、そのまま頬に伸ばす。
「・・・こっちを、向いてくれないか」
「え・・・」
 でも。
 言いよどむ口唇を手のひらで押さえ、ほとんど無理に、身体を反転させる。 まず長次を射たのは、驚いたような瞳だった。
「きみを、ちゃんと、見たいんだ」
 三郎は、眩暈すら感じる。
 彼は、目の前にいる男が使う「きみ」という言葉が好きだった。
 「おまえ」でも、「鉢屋」でもなく、「きみ」。
 紳士的で、礼儀正しく、三郎の鼓膜を震わせる。
 こんなに丁寧な言葉が似合うのは、彼しかいないと、思わせる。
 だからこそ三郎は、屈してしまう。
 口元に触れていた長次の手を外し、真っ直ぐと、見つめ返す。
 1本の蝋燭に照らされた長次の顔は、橙色の光せいか柔らかく、 いつもと変わらぬ無表情であるのに、なぜか微笑んで見える。
 このひとの眼は、深い。
 三郎はいつも、そう思う。
 眼だけで、あまりにも多くのことを語ってしまう。
 たとえば、心でも身体でも語ることのできぬ、愛も。
 その、あまりにも深い愛に見据えられるということは、三郎にとってある種の覚悟が必要だった。 自分は、それだけ深い愛をもって、相手を見つめ返せているのだろうか、と、不安にすらなる。
 長次の手が、三郎の頬を撫でてゆく。
 日の下で見るより、ずっと細く見える首筋や、鎖骨や、肩も。
 見えぬ愛が、その指先から、三郎の皮下に流れ込む。
 快楽だけではない。
 その愛が自分を満たしすぎるほど満たしてゆく感覚に、三郎は吐息を漏らさずを得ないのだ。
 呼吸をしなければ、溢れ出してしまう。
「・・・三郎」
 普段呼ぶことのない下の名を囁き、口付ける。
 その瞬間、長次はとても神経を使う。
 三郎という少年が、普段、とても気丈に生活をしているからだ。
 元来、負けず嫌いで、見栄っ張りですらある三郎が、こうして男の腕に抱かれるということ自体、 相当の克己心が必要なはずなのだ。
 それでも、こうして愛に準じてくれることに、長次はいつも、敬意を払う。 ほかの男に触れられたらきっと、相手を睨みつけて、その手を叩き落すだろう。 ことさら文次郎に対しての三郎は、まるで野生動物のように懐かず、言うことを聞かず、 手を焼かせている。そんな彼が、自分の愛を全て受け止めようとしている様が、 とてもいとおしく、その健気さに、胸を打たれてしまう。
 全身の愛を以って、大切にしなければ、と、思う。
 幾度夜を重ねても、その想いだけは、変わらない。





 明かりを消さずに行為をすることは、三郎にとって今までにない感覚を呼び起こさせるものだった。
 今までの夜で、すでに全てを知られているはずだった。
 だが、違ったのだ。
 不意に、噛みつかれるような口付けの瞬間にすら、気付く。
 その、計り知れない愛の重さに。
 それは、長次から与えられるものだけでは、ない。
 受け止めようとしている自分の愛にも、だ。
 ほとんど夢中で、幸福の渦に飲まれるような中でも、三郎の中では別の意識が働いている。
 この愛を一滴たりとも逃すまいとする、深い、意識。
 快楽の淵においやられ、それでも三郎は、長次の目を見つめる。
 この目が自分を見ている内は、決して逸らしてはならないと。
 明かりに照らされてするということは、そういうことだと、知った。
 幾度目だろうか。自分の中心が、貫かれる。
 いつもの闇の中であれば、その感覚は「ああ、くる」というだけに過ぎないのだろう。だが、この夜は違う。 朦朧としながらも、三郎がそこに目を向ければ、確かに繋がる場所は存在しているのだ。
 羞恥に煽られながらも、三郎は、ひそやかに微笑む長次を見つめ返す。 その行動には、どれほどの勇気が必要だったろうか。
「・・・先輩」
 その広い背中に腕を回し、三郎はひとつ、吐息をつく。
「おれ、気付かなかった・・・」
「・・・何に?」
 喋ることすら苦痛になりそうな快楽の中、それでも三郎は、なんとか言葉を繋ぐ。 今言わなければ、また、飲まれてしまう。
「おれ、先輩と、すごいことしてたんだ・・・」
 こんな、すごいこと。
 ほとんど呼吸だけで言う三郎に、長次は笑ってしまう。
「だって、おれ、こんなの、ただの性欲発散でしかないと思ってたから」
 なぜか拗ねるような口調になる三郎の額を撫で、長次はそれまで止めていた腰を1度に進めてしまう。
 瞬間、三郎は眉間にきつく皺を寄せ、細い声を上げた。
「・・・俺は、誰にでもこうはしない」
「そんなことしたら・・・、おれ、・・・」
 せんぱいのこと、ころしちゃうとおもう。
 背中に爪を立て、三郎は呟く。
 ひどく甘い声で、冷たい炎のように激しい言葉を。
「その目で、おれ以外のひとなんか、見ないで」
「・・・できないさ」




 まるで、愛を交わしすぎて、互いが入れ替わってしまうのではないかと、そう錯覚させるほどの愛。





 これほどの愛を、誰に注ぐことができようか。





 これほどの愛を、誰から受け取ることができようか。





 これほどの、愛を。





 











 ご要望にお答えして、蔵入り状態だった長鉢を引きずり出しました。



2006.03.12









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