会いたかった

















 とても蒸し暑い夕暮れだった。
 部屋で課題を済ませてしまおう思っていた三郎は、額や首や背中に流れる汗を 拭いもせずに机に向かっていたが、30分程で我慢できずに筆を投げ出した。
「・・・暑い」
 夏は終わろうとしているのに。
 いや、夏が終わろうとしているからだろうか。
 季節が、暑さを搾り出しておこうとしているかのように、暑い。
 三郎は部屋の襖を開け放ち、這いずるようにして縁側に出る。
 日が沈み始める時刻の光が彼の顔を照らした。
 青い忍び衣の袖で額を拭うと、そこだけが濃く浮き立つ。きっと、自分の背中も 同じような色をしているだろう。
 そして不意に、長次のことを思い出した。
 彼は、この暑い夕暮れになにをしているのだろうか。
「会いてぇなぁ・・・」
 ぼんやりと口にした瞬間、彼は膝の間に自分の顔を埋める。
 恥ずかしかった。
 会いたいなぁ。そう口にしてしまうことは、まるで青春の一頁のように甘酸っぱく、 がむず痒い。
「・・・なに言ってんだろ」
 自嘲し、彼は廊下に寝そべった。
 いつでも会える。毎日でも、その気になれば、1日の半分でも。
 それなのに、なぜこうも、会いたいと思ってしまうのか。
 なにが足りないのか、三郎には一向に理解できない。










 すっかり陽が落ちた頃、長次は三郎の部屋に現れた。
 夜になっても気温は下がらず、三郎は手のひらで顔を仰いでいたが、 突然現れた来訪者にその手が止まる。
「先輩」
 言い、だらりとした姿勢を正すのも忘れたように、相手を見上げる。
 いつまでもたっても、彼に会う瞬間の緊張が解けない。まるで、初めてふたりきりに なったときのように、三郎は胸が高鳴る。
 いつも、いつも、いつもだ。
「晩飯は、食べたか?」
「え?・・・はい、食べましたけど」
「・・・これから、ちょっと、出られるか?」
 いつものように、長次は丁寧に言葉を選ぶ。
 三郎はゆっくりとした言葉に釣り合うように、ゆっくりと頷く。
 思わず、顔が綻んだ。










 裏々山を、長次はのんびりとした足取りで歩いてゆく。
 三郎は彼の隣を歩きながら、静かに立ち並ぶ木々の間を見上げる。とても明るい、満月の晩だった。
 昼間あれほど暑かったにも関わらず、植物たちは今既に冷たい色を取り戻し、 生気を放っている。
 どこに行くんですか? と尋ねた三郎に、長次は表情を変えずに笑い、見せたいものがあるんだと だけ言った。
 それが何か、三郎は問わない。
 相手が言わないのなら、言わない理由があるのだ。
 小さな期待を抱き、三郎は彼の隣を歩き続ける。
 どれほど歩いただろうか。
 気付くと、いつものマラソンのコースを離れている。
 道らしい道もない場所を、ふたりががさがさと音を立てながら――それでも極力静かに―― しばらく進み続けると、長次はようやく歩を止める。
 目の前には、深紅の百合が群生していた。
 









 昨日、見つけたんだ。
 長次の声は低く、まるで降ってくるように静かな声だった。
 三郎は一歩だけ百合に近づき、大きく息を吸う。
 濃い芳香が、頭の芯に浸透する。
「前に、鉢屋と見た百合だろう?」
 そう言う彼に、三郎は少しだけ目を細め、左右に首を振った。
「あれは姫百合です。これは、違うものですよ」
 僅かに驚きの表情を出し、長次は身を屈める。
 そして、花を隅から隅まで凝視したあと、そうか? と言った。
 三郎は、同じように身を屈め、触れない程度に花弁を指差す。
「ほら、黒い斑紋が。だからこれは、違うものです」
「・・・そうか。じゃあこれは、なんというものなんだ?」
「これは、鬼百合です」
 長次の静かな声と同じだけの静けさで、三郎は一音一音はっきりとその名を口にした。
 おにゆり。
 初めて口にする言葉のように、長次は言う。
 とても優しい声で、やっぱり、降るように。
「違ったのか」
「けれど、この花も好きです」
 姫百合より、色っぽいところが。
 付け足す三郎に、長次は不思議そうな顔をする。
 その目が、なにが? と問うていたので、三郎は笑った。
「色が濃いところも、匂いも、この斑紋も」
「・・・そうか」
「だから、おれはどっちも好きですよ」
 別に、フォローをしているつもりではなかった。
 今は本心で、そう思っていたのだ。
 むしろ姫百合よりも、鬼百合のほうが好きだ、と。
 しばらくふたりは、そうして満月に照らされる百合を見つめた。
「こんなに群生しているなんて、珍しいですね」
「・・・そうだな」
「こんな場所があるなんて知らなかった」
「鉢屋」
 呼ばれた三郎が顔を上げる。
「会いたかった」
 まっすぐに、長次は言った。
 唐突な言葉。
 それは、やはり降るような響きではあったが、まるで槍のように強く、三郎の 心を一直線に貫き通す。
 動けなくなるほど、強く。
「会いたかった」
 もう1度言い、今度は勢いのまま三郎を腕にかき抱く。
 昨日も、一昨日も、その前も、毎日会っていたのに。
 温かく緑の匂いがする胸に顔を埋めたまま、三郎は、そう考える。
 考えるだけで、口にはしなかった。
 そうされることも、そう言われることも心地よく、なにより、 自分も同じようなことを考えていたから。
 会いたかったから。
 ずっと、ずっと。
 ずっと。










 背中の下に敷かれた草は、思ったよりも柔らかい。
 そう考える三郎の眼の中には、肩越しに見える丸い月ある。
 少しだけ左右に視線を動かすと、自分を見下ろしているかのような鬼百合。 草と、土と、花と、長次の匂いがした。
 暗く、ひどく明るい。
 木々はざわめきひとつなく、鬼百合のようにふたりを見下ろしている。
 静かすぎるほど静かな晩だった。
「・・・みんなが、見てる」
 呟く三郎を見下ろして微笑んだまま、長次は何も言わない。
 三郎は思わず相手の頬に触れた。
「・・・先輩の眼の中に、俺がいる」
「・・・いつも、そうだ」
 いつも、そうだ。
 言われたことを心の中で繰り返し、三郎は広い背中に腕を回した。
 自分の眼に映っていた長次を焼き付けるように、瞼を閉じる。
 途端に、鬼百合の香りが強くなった気がした。
 媚薬のような匂い。
「・・・・・・先輩」
 白い喉仏に口付けながら、長次は吐息だけで返事をする。
 三郎は彼の黒い髪を指で梳いた。
「・・・会いたかった」
「・・・・・・ああ」
「・・・ほんとうに、すごく、会いたかった」
 思わず、声が震える。
 長次は、そんな震える喉にもう1度口付けて顔を上げた。
「おれもだ」
「・・・ほんとうに?」
「ああ」
「ほんとうに、ぜったい?」
「・・・ずっと会いたかった」
 それ以上三郎が何かを言うのを止めるように、口唇が塞がれる。
 ふたりの身体が土に溶けてしまうかと思うほど、甘く。










 三郎の吐息は夜気に溶け、百合の香りと混ざってゆく。
 











 自分で勝手にふたりの話を書き続けているにも関わらず、 ものすごく客観的に「ふたりには幸せになってほしいなぁ」と思います。
 私が書いてはいるけれど、まるで先のことが解らないし、 ふたりは全く私の手からかけ離れた場所にいる子のように感じます。
 そんな、不思議な子たちです。
 だいすきです。



 2005.10.19









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