だいじょうぶ

































 救われる、と、思える血だった。
 くないを握り締めたまま、三郎は薄く笑う。
 なぜ、自分はこんなことをしているのだろうか。頭がおかしくなったわけでもない。 こうして、冷静になっている。それなのに、頭の中に湧いてくる 疑問符を打ち消すことができなかった。
 日は徐々に落ち、襖の骨が部屋に陰を落とす。
 そんな部屋の隅にぼんやりと座り、彼は足を投げ出している。
 畳に、腕から流れる血が吸い込まれてゆくのが見えた。
「おかしくなんか、ないんだけど、な・・・」
 こんなことをしていると、まるで自分がおかしいようだ。
 もう1度力なく笑い、三郎は右手のくないを持ち上げる。
 その刃を左腕に押し付け、目を細め、力を込め。
 引く。





 ぴりりとする痛み。
 しかしそれよりも、衝動のほうが遥かに勝っていた。
 三郎の手が、ゆっくりと同じ行動を繰り返す。
 もう腕は、拭われることなく乾いた血と、溢れ出てゆく半乾きの血と、 流れ始めたばかりの血で染まっている。
「・・・なんでかな」
 もう1度呟き、三郎はぱたりと右手を畳に落とした。
 力を失った指から、くないが離れる。
 涙が流れた。
 生きる意味が、見えなかった。
 この先の人生になにがあるのか、解らなかった。
 その不安を掻き消すために、くないを手に取ってしまっていた。
「ほんとに、なんでだろう・・・」
 なんでこんなことをして、救われているのだろう。










 ほとんど、叫ぶような声だった。
 しかし、その声は三郎の耳には届いていない。
 駆け寄ってくる長次を見上げ、彼は首を傾げる。
 どうしたんですか、と、その口唇を動かしたつもりだったが、 その声は掠れ、自分で聞き取ることもできなかった。
「そんなの・・・、こっちの台詞だ」
 いつものように静かに、それでも強い声だった。
 そんな長次の手が、すぐに転がっているくないを奪う。
 三郎は、おかしそうに笑った。
「どうして、そんなに慌てているんですか?」
 雨でも降ったんですか?
 先輩、午後になって洗濯物干してましたもんね。
 なんということはなく言う三郎の笑顔は、まるでいつもと変わることなどなく、 それが長次の心を凍えさせる。
 そうだ。一緒に洗濯をしていたときも、彼は笑っていた。
 それなのに、この数時間の間に、どうしてしまったのか。
 知る術もなく、長次は懐から手ぬぐいを取り出し、真っ赤に染まっている 三郎の腕を巻いてゆく。
 傷のせいで熱を持っている腕に触れながら、長次はきつく噛んでいた 下口唇を離す。いつもより、さらに慎重に言葉を選ぶ。
 それでも、選びようなどなかった。
「・・・・・・死のうと、したのか?」
「まさか」
 軽く、羽毛のような声が返される。
 長次は顔を上げて、三郎の両頬を包み込んだ。
 白い頬に血がつこうと、構わなかった。
「じゃあ、なぜ・・・」
 いつもより細くみえる腕が首に回される。
「なんででしょうね・・・」
 困ったように笑い、三郎は首を傾げる。
「こんな気持ちになったのは、初めてです」
「・・・・・・」
「生きている意味が、解らないなんて」
 そんなもの、求めるほうが無駄なのに。
 長次の温かく大きな手のひらに顔を寄せ、三郎は目を閉じる。
 その目尻から、透明な雫が流れた。
 あまりにも静かに。
「忍者は・・・、幸せになれるのかな・・・」
 口にすることすら憚られる問いだった。
 誰もが考え、それでも問えずにいたこと。
 何十年生きた忍びでも、そんな答えは知り得ないだろう。
 いや、むしろ、死ぬその瞬間にしか決められないのだ。
 そんな問いに、長次がまともな答えを返すことなどできるはずもなく。できるのはただ、 その脆い少年を抱き締めることだけで。
「だいじょうぶ」
 呟き、さらに強く、三郎を抱きこむ。
「・・・だいじょうぶだ」
 だいじょうぶ。だいじょうぶ。
 何度も、長次はそう言った。
 何が大丈夫なのか、自分でも解らない。
 しかし、いつも三郎は自分に言ってくれていた。
『だいじょうぶですよ』
 と。
 そう言われるたびに、意味もなく、そう信じられた。
 彼が言うならば、きっとだいじょうぶなのだろうと。
 だから、自分もまた、その言葉の強さを与えるしかないのだ。
 彼が言うように、安心させてやれるかなど、解らない。
 明確な答えも、根拠も、なにも与えてやれない。
 それでも。
「・・・だいじょうぶ」
 もう1度言うと、三郎の吐息が自分の耳にかかった。
 少しだけ、笑ったらしい。
 温かな手が背中に回される。
「・・・そうですね」
 先輩が言うなら、きっと。
 涙のせいだろうか、湿った声で三郎は言う。
 長次は、そんな彼の柔らかな髪を撫でる。そうされるのが好きだと、 以前彼が言っていたのだ。
「・・・今みたいなことは、・・・したくて、してたのか?」
 撫でている頭が、小さく左右に振られる。
「ただ、衝動で・・・」
「・・・そうか。・・・そうだな・・・」
 僅かに考え、長次は「それなら」と続ける。
「また、同じことをしてしまいそうだったら、私のところに来るといい」
 こうして、ずっと抱き締めていればきっと、できないから。
 長次の胸から顔を離し、三郎は驚いたような目をした。
「・・・また、だいじょうぶって、言ってくれますか?」
「・・・ああ、約束する」
 約束する。
 その響きの強さに、素直に胸を打たれ、三郎は再び温かな胸に顔を埋める。また少しだけ、 泣いておこうと思った。





 いつ自分が死ぬのか解らないけれど。
 それでもあと少しは、生きてゆける。
 そう思えるほどの「だいじょうぶ」だった。








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 どうしてこんな話を書こうと思ったのか、今でも解りません。
 ひどく衝動的だったような気がします。

 リストカッターには禁句の「やめろ」は言わせませんでした。




2005.10.09





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