顔
眠れぬ月夜であった。
明るさが目につき、三郎は布団の中で寝返りをうつ。
隣では雷蔵が静かな寝息を立てている。ときどき呼吸を確かめたくなるほど、
彼は静かに眠る。
それを妨げぬように、三郎はそっと、雷蔵を覗きこむ。
自分は、この顔で生活をしているのだと、考える。
その途端。
彼はとんでもないことに気付いてしまった。
(おれは、あのひとの隣に、別の男の顔でいるんだ)
夜気のせいか、思考のせいか、急に空気が冷たくなる。
三郎は雷蔵を覗き込んだまま眉を寄せた。
あのひとは、おれが雷蔵の顔でも平気なんだろうか。
そんな、愚かと自分で理解できるほどの思考。
それなのに、それが黒く心を支配するのを、止める術も知らず。
その日、三郎は別の顔で長次の前に現れた。
選んだのは、背格好も同じほどの兵助である。
長次は当然のごとく、それを三郎だと理解した。
「今日は、違う顔か?」
「・・・気分転換です」
長次は、微かに困ったように笑う。
それを見た三郎は、それがなぜなのか解らない。
「なにか、困るんですか」
「・・・それは、そうだろう」
いつもと違うと、なにか、落ち着かない。
言われ、三郎は下口唇を噛んだ。
昨晩、心の中に渦巻いた感情が、再び浮上する。胸がざわつくことを止められず、
さらに肥大してゆく。
「・・・そんなに・・・」
「え?」
兵助の姿をしたままの三郎は、ぎり、と、拳を握る。
俯いた表情は、硬い。
「そんなに、雷蔵の顔がいいんですか」
愚かな問いだと、自分でも解っている。
それなのに、言わずにはおられなかった。
ぶつけてしまわねば、行き場などなく。
「・・・鉢屋は、不破の顔をしているつもりだったのか?」
問われた意味が解らず、三郎は「は?」という顔をしたまま首を傾げる。長次はやはり、
何かに苦笑をしていた。
「おれは、そう思ったことが、ないから」
「・・・そんな」
嘘だ。
思わず、否定する。
しかし、長次もまた、左右に首を振った。
「初めてみたとき、不破じゃないと、わかった」
その後、何度か見ても、そうおもった。
ああ、いつも不破の変装をしてる子だ、と。
「だから、鉢屋の顔は、鉢屋の顔だ」
不破の顔じゃ、ない。
言われ、三郎は再び、「そんな」と呟く。
いつもよりも多く喋ったことに疲れたのか、長次はひとつ息をつき、再び
口を閉ざした。
それ以上に補足することなど、なにひとつないかのように。
いつでも、おれの顔は他人のものを借りているだけ。
それなのに、このひとは、この顔がおれの顔だと言う。
雷蔵の顔をしているつもりだった、この顔が。
この顔が、おれの顔だというのだ。
ちがう顔だと、いうのだ。
長次は目を伏せ、記録帳を開く。
そして、独り言のように、つぶやいた。
別人だよ。と。
三郎の変装の技術を否定する言葉ではなかった。
ただ、彼を個人で見つめている、確かな証拠。
なぁんだ、と、三郎もまた呟く。
そして、兵助の仮面に手をかけた。
その下には、零れんばかりの笑みがひとつ。
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三郎と雷蔵の顔はまったくの別物。
どんなに同じ笑い方をしても、同じ仕草をしても、それは長次にとってはなんの意味も
持たず。
そんな話を書きたかったのでした。
2005.08.26
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