B C P

 









 

 

































 おれに触れてはいけないのだ、と、長次は言った。
 そう言われたときの、三郎の顔といったら。
 三郎の顔といったら。










 その日、いつまで経っても図書室に長次は現れなかった。
 時刻を守る彼のことである。いつもならば、放課後になればきっちりと姿を現す。
 雷蔵と三郎は、どうしたものかと同じ顔を同じ方向に傾げていた。
 そんなとき。ちょうど仙蔵が姿を現した。
「これ、返却に」
 彼はふわりと笑い、本を雷蔵に渡した。
 ひどく物言いたげな三郎に、仙蔵は可笑しげに首を傾げる。
「どうしたんだ、鉢屋。なにかあるのか?」
「・・・あ、の、長次先輩は・・・?」
 こんなことを誰かに訊くのも恥ずかしいというように、三郎は 眉間に皺を寄せている。
 長次以外には強情な子だ、と、仙蔵は内心笑ってしまった。
「ああ・・・、長次なら、病気だ」
「病気!?」
 長次本人がいたら睨まれそうなほどの声で、三郎は叫んでいた。
 そんな彼を慌ててなだめ、雷蔵が顔を上げる。
「病気って・・・、重いのですか?」
「いや、しばらく安静にしていれば平気だが・・・。なにぶん、熱が続いているからな。 数日は授業にも出られないようだ」
 そこまで聞いて、三郎がじっとしているはずもなかった。
 日頃は他人などどうでも良かったが、長次は別だ。
「あのっ、お見舞いぐらいなら、大丈夫ですか!?」
「それは平気だが・・・」
 仙蔵が全てを言い終わらないうちに、彼は図書室から風のごとき速さで 走り去ってしまった。
 開け放たれた扉を見て、仙蔵は肩を竦めるばかり。










 息を整え、三郎は襖を開けた。
 薄暗い部屋の中に、一組の布団が敷かれている。
 そこに横たわった男は、首だけを微かに巡らせた。
 そしてその姿を確認したとき、眼が見開かれた。
「くるな」
「・・・・・・え?」
 言われた言葉の意味も解らず、三郎はただ立ち止まる。
 長次はゆっくりと手を挙げた。
「俺に、触れるな」
「なにを・・・」
「皮膚の感染病だ。触れれば、おまえもかかってしまう」
 そう言われたときの、三郎の顔といったら。
 三郎の顔といったら。
 あまりにも泣きそうな顔で、見ている人間が泣きたくなるほど。
「・・・近くには、行ってもいいのですか」
「ああ・・・、触れなければ」
 布団の脇に鎮座して、三郎は途方にくれたように彼を見下ろす。
 長次の顔は、熱のせいだけでなく、赤みがかっていた。よく見れば、 細かな湿疹が浮き出ている。
 三郎は、その頬にすら触れられぬことが、酷く苦しかった。
 やり場のない手が、きつく膝の上で握られる。
 長次は、なだめるように微笑んだ。
「・・・熱が引けば、すぐに治る」
「は、い・・・」
 そこで、ふたりの会話は止まってしまった。
 触れることができぬということは、これほどまでにつらいのか。
 三郎は指の1本も出すことが出来ぬ自分に、歯がゆさを感じた。
 いや、無理にでも触れることはできる。
 だが、そうしてしまったら、長次は自分を怒るだろう。
 彼が自分に触れるなというのは、想いのひとつであるのだから。










 平気?
 雷蔵の声に、三郎は顔をあげた。
 どうやら、随分と長い間、ぼんやりしていたらしい。
 困ったように微笑んで、雷蔵は三郎の肩を叩く。
「もう1週間でしょ?そろそろ良くなるよ、きっと」
「・・・うん」
 霧雨の日であるにも関わらず、図書室は人が少ない。
 三郎はぼんやりと、鈴の音のような雨音を聴いていた。
 これほど恵みの雨が降り続いているにも関わらず、彼の心は日に日に 乾き、ぱらぱらと音を立ててひび割れる。
 いつか、長次が「乾いている」と言ったのは、これなのか。
 そうだとしたら、乾くということは、なんと愛していることか。
 そんなことを、今になって痛いほど知る。
 彼は両手をきつく握り締めて、机に顔を伏せた。










 おれは、あなたを乾かしてしまうほど、愛されていたのか。





 そしておれも、それほどまでに、あなたを。










 昨日の夕刻に霧雨だった雨は、夜には激しさを増し、明け方まで 川が増水するほど降り続いた。
 三郎は部屋の襖を開けて、濡れた朝の庭を見る。
 全ての草花が潤い、露の中で輝いていた。
「いいな・・・、おまえたちは」
 雨で乾きを潤すことができるのだから。
 呟いて、三郎は廊下を歩き出した。
 いつもならば、朝から長次の部屋に来ることはない。
 だが、今朝はどうしても、心を止められなかった。見るだけで 乾きが完全に癒えることはないとしても、 一目でも見なければ、さらに飢えるばかりなのだから。
「おはようございます」
 ゆっくりと襖を開け、三郎は驚いたように目を見開く。
 白い布団は丁寧に畳まれ、長次は髪を結っていたのだ。
 既に、服も忍衣にと着替えられている。
「おはよう」
 目だけで笑う顔に、いつものような微熱の気配はなく。
 それでも三郎は、確かめずにはおられなかった。
「あの・・・、病は・・・?」
「ああ、もう平気だ」
「平気・・・」
 言われても動かない三郎に、長次は苦笑せずにはおられない。
 1本の木のように立ち尽くした彼に、長次は手を差し伸べた。
 それでも三郎は、その手を見つめたまま動こうとしない。
 どこか、意識だけを遠くに置いてきてしまったように。
 長次は、再び、目だけで笑う。
「・・・おいで」
 優しく響く、その声。
 三郎の耳がそれを聞き取り、頭が判断し、足が動くまで。
 一体どれほど、かかっただろうか。
 瞬間。
 三郎は長次の手を取ることなく、身体ごと抱きついた。





 干からびてしまうかと、おもった。





 胸から上げられた顔は、泣きそうになりながらも、寸でのところで涙を 堪えたまま、笑っていた。
 三郎は、顔を上げたまま長次の頬に触れる。
 頬だけではなく、額、瞼、鼻、耳、口唇。
 それらを確かめてゆく指から、確かに何かが、浸透してゆく。
「・・・あと、一滴です」
「・・・一滴?」
「あと一滴で、・・・」
 満たされる。
 言うのと同時に、三郎は長次に口付けた。




















 雨も降らず、砂ばかりの土地があると聞く。
 でもきっと、おれはそこでも、生きてゆける。
 このひとがいるなら、おれはどこでも。










 満たされ、潤う。













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 今度は、長次欠乏症の三郎です。




2005.08.14





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