蜜の名を

















 今の時間に名をつけるならば、幸福、だ。
 三郎は青空を見上げたまま、そう考える。
 隣では、長次が仰向けになったまま眠っていた。
 鼻のさきには、先刻から白い蝶が止まっている。
 息だけで笑い、三郎は再び空に視線を戻した。










  「眠って、いたのか」
 長次の声に、三郎もまた、閉じかけていた瞳を開く。
 既に、彼の鼻の先にいた蝶は姿を消している。
 これほど温かく、素晴らしい空の日なのだ。
 それもまた、仕方ない。
 長次は、肩肘で頭を支え、三郎のほうを向いた。
 ふと、柔らかな風を受けている少年の髪に、長い指が触れる。
 何も言わぬ手があまりにも優しく、三郎は泣き出しそうになる。
 そんな彼の気も知らず、長次は、微笑んだ。
「・・・三郎」
 さぶろう。
 確かに、その口唇はそう言った。
 それが信じられぬように、三郎は彼の手を握る。
 驚きを含んだ目が、微かに震えた。
「・・・もう1度、呼んで、ください」
 微笑みのまま、長次は彼の手を握り返し、
「三郎」
 と。
 心地よく低い声が、三郎の耳から胸へと浸透してゆく。
 名を呼ばれるたびに、こうなってしまうのだ。
 三郎にとっては、姿かたちが偽りのものである。そんな自分に唯一正しいものがあるとしたら、 それは常に「名前」であった。
 その名前こそが、自分の持つ、唯一の財産のように思う。
 だから彼は、もう1度と、強請った。
「・・・そんなに、嬉しいのか?」
 だって、と、彼が弁解する間もなく。
 長次は彼の耳に口唇を寄せた。
 何度でも言ってやる、と。










 三郎。





 三郎。





 三郎。










 名の持ち主は、耳のすぐ傍で聴こえる響きに、笑う。
 その息と、声を、全て己のものにしてしまいたいほど。
 それほどの幸福に、彼は目を閉じる。
 自分の頭を抱き寄せた胸に顔を寄せ、彼はひとつ、息をつく。
「・・・先輩が、だいすきです」
 だいすきです。ほんとうに。
 それ以上の言葉が、三郎には見当たらなかった。
 すきなんて軽いものでもなく、愛しているというほど重くもなく。
 いや、実際は愛しすぎるほど愛していた。
 それでも今、この瞬間の三郎は、長次が「だいすき」で。
 そんな彼に、長次は再び、微笑みをひとつ。
 耳もとに寄せたままの口唇で、囁いた。
「偶然だな」
 おれもいま、そうおもったところだ。と。















2005.08.13









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