見 な い で
彼は、顔を洗わないと誰かに聞いた。
ひどく暑い日だった。
図書室の窓を全て開け放っても、風が通らない。
長次は立ち上がり、廊下の窓も開ける。
それでも風向きは違うらしく、無駄に動いた彼の額に汗が浮く。
舌打ちをした彼の背後で、くすりと笑う声がした。
「・・・鉢屋」
「珍しいですね。苛々してるんですか?」
「いや、ただ、風向きが悪くて」
「ほんとだ。ここ、全然風が入らないんですね」
手のひらで顔を仰ぎながら、三郎は図書室に入った。
じっと動かずとも、長次の額からは汗が流れる。
彼は不意に、言っていた。
「顔を洗いたくなるな」
返事のない問いに、長次の身体は微かに冷気を帯びた。
隣にいる三郎は、無表情に正面を向いている。
風ひとつ入らない窓を、まっすぐに。
失言をした口唇が、無意識に動く。
「・・・すまない」
そんな彼に、三郎は微笑んだ。
「なにがですか?」
その笑顔はあまりにも『普通』で。
普通すぎて、苦しいほどに。
彼は、顔を洗わないと誰かに聞いた。
そんなことは嘘だと知っている。
ただひとつ解るのは、『人前で洗わない』ということ。
濁りなき早朝。
ひとり、その指が冷たい水を掬う。
涼しくなってきた夕暮れ、図書室にも風が入り始めた。
その風が、三郎の前髪をふわりと持ち上げる。
彼は目を細めて、薄紫に染まった空を見つめていた。
「・・・いつか」
いつか。
その続きを、彼は言わない。
そして長次も聞き返さない。
三郎は空から目を離し、小さく俯き、笑った。
ありがとう、ございます。と。
掠れる声は、やはり微かに震えていて。
長次は沈黙のまま、彼の肩を抱き寄せた。
同じ朝がくるとき。
きみがひとり、床を抜け出すとき。
わたしはじっと、眠ったふりをしていようと、思う。
きみは振り向かずに、行けばいい。
追いはしないから。
目は、閉じていてあげるから。
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いつか、顔を。
それを言い出せない三郎と、求めない長次。
2005.08.03
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