B C P

 









 

 
 

































 あまりにも退屈で、三郎は白い紙を紙箱から取り出し、机に乗せた。
 何かを書こうと思いながら、ぼんやりと墨をする。
 勉強などをする気分でもなく、読みたい本もない。
 そうだ、と小さく呟いて、彼は黒い墨をたっぷりと筆につけた。
 そして、その白い紙に向かう。
 長次に尋ねてみたいことを、書き出してみよう。
 思いながら、彼は筆を走らせる。
 いつも、訊きたいと思うことはたくさんあった。だが、時間が経つと忘れてしまい、 後になってから「訊けばよかった」と後悔することが多々ある。
 忘れないように、書き出しておかなければ。
 そうして、この後に来る長次に、きちんと尋ねなければ。
 そんなささやかな幸福を胸にして、三郎と白紙の対話は始まった。





・小さいころ、好きだった食べ物はなんですか?
 そんなことを、初めに書いてみる。
・好きな色は、なんですか?
 とりあえず、これも知っておきたい。
 それらの単純な質問が、三郎の頭には湧いていた。
 単純すぎて、今まで知らなかったものたち。
 いつも尋ねようとして、忘れてしまってきたものたち。
 三郎が筆を走らせ続けて、半刻が過ぎた。





・ある日、おれがどこかへ逃げたいと言ったら、先輩はついて来てくれますか?一緒に 逃げ出してくれますか?





 その問いを書いたとき、三郎の表情は色を失った。
 そんなこと、してくれるはずがないではないか。
 そう、思わざるをえない問いであった。
 だめだ、こんな、質問は。
 小さく呟き、三郎は筆を持ち直す。次の行に、筆を置いた。





・俺が死んでしまったら、泣いてくれますか?
 狂うほど泣いて、くれますか?





 狂うほど。





「・・・そんなの・・・」
 三郎の表情は、色を失った状態から、苦悶にと変わる。
 涙が、滲んだ。
 彼は、泣いてくれるのだろうか。
 自分という人間が消えてしまったとき、哀しんでくれるのだろうか。
 自分のいない世界に絶望し、狂うほど、亡骸をかき抱いてくれるのだろうか。
 ・・・ああ、それほどまでに、自分は、愛されているのだろうか?





 問えるはずがない。
 そんな怖ろしいことを。
 ・・・なにが、怖ろしいかって?
 その、答えだ。
 答えるときの、困ったような、相手の表情を見ることだ。
 苦しい答えを出させることが、だ。





 急に背中を煽る風に、三郎は目を見開いて振り向いた。
 天井から、音もなく長次が降りてきていた。
「せんぱ・・・」
「驚いたか?」
 冗談など言わない彼が、からかうような口調で言う。
 三郎は戸惑いを隠せぬまま「ええ、まあ」と答える。
 まだ乾かぬ紙を腕で隠していた。机には墨がついたままの筆が転がっている。長次は、 それを見つけて指をさした。
「・・・筆が」
「え!?あ、ああ・・・」
 いけない、と笑い、三郎は筆と共に紙をしまおうとする。実際は、しまうというよりも、 早く隠してしまいたかった。
「勉強をしていたのか?」
「いや・・・、そうじゃないんですけど・・・」
 素直に嘘をつけば良いものを、三郎にはそれができなかった。
 長次はなんの気もなしに、その紙を覗き込む。
 それと同時に、ふたりの間で呼吸が止まった。
 三郎は、震えた手を必死で動かし、紙を握った。皺になった紙が乾いた音を立てる。彼の指に 墨がついた。
 何を言っていいのか、解らない。
 相手の顔を見ることもできずに、ただ、俯くばかり。
「・・・おれは」
 三郎が言葉を出すよりも早く、長次が空気を震わせた。
「・・・なにも、考えられない」
 搾り出されたかのような声に、三郎は顔を上げた。
 畳に正座をして、長次は薄く口唇を開き、眉を寄せていた。
 擦れた声が、再び絞られる。
「・・・狂うなんてものじゃ、ない」
 亡骸になど、触れられない。
 ただ何もできずに見下ろして、幾日も、幾月も、そうしているだろう。
 言葉も涙も出てこないまま、ずっと、ずっと。
 そうだ。
 そうしてきっと、朽ちるように、死んでしまうのだ。
 俺もまた、鉢屋の隣で。





 おまえの、となりで。





 朽ちてゆく。





 最後の言葉は、耳を欹てなければ聴こえないほど小さな響きだった。
 多くを喋らない長次が、必死に紡いだ、痛みを伴う言葉たち。
 それらのものに、三郎は魂を抜かれたように、呆然とした。
 まさか。
 あなたがそんなに、そんなに、俺を想っているなんて。
 それが嘘でも、それを言葉にするほど、想っているなんて。
「・・・先輩」
 まだ震えている指で、長次の袖を掴む。
 いつもと変わらぬ静かな空気が、三郎に伝わった。
「・・・鉢屋」
「はい・・・」
「どうして、泣く?」
 言われて初めて、三郎は自分が涙を流していることに気付く。
 困ったように笑う長次の指が、そんな彼の頬に触れた。
「・・・泣きたいのは、こちらのほうだ」
「す、すいませ・・・」
 でも、と、三郎は付け加えた。
「これはたぶん、・・・哀しいからじゃ、ないんです」
 言って、彼はごめんなさいと続けた。
 ごめんなさい。
 たぶんこれは、嬉しいからなんです。
 そう言う三郎を、長次は黙って抱き寄せる。
「・・・なんだか、いつまでも片思いのような気持ちなんです」
「・・・・・・なぜ」
「ひとりで想っていた時間が長すぎて・・・、今でも想われている自信が、ないんです・・・。 いつも、自分ばかりが必死のような、気がして」
 だから、先輩は俺が死んでしまっても、哀しくないんだと思ってしまった。
 言いながら、三郎は手に握っている紙を感じた。










 白紙で提出してしまった答案。
 間違った答えを書くことを恐れ、白いままの枠。
 返ってきた答案に書かれていたのは、点数ではなかった。
 丁寧に丁寧に書かれた、正しい答え。










 彼の視界が、再び白く霞んだ。








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2005.06.10





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