喜八郎は、誰の手も届かぬ場所を飛ぶ。
 手を差し出しては引っ込めて、ふふ、と笑う。
 とんだり、はねたり、腕を伸ばしたり、首をひねったりしながら、 男は少年を追わねばならぬ。
 指先が、はらはらと舞う蝶をつらまえようとするのと同じだ。
 蝶からしてみれば、翻弄しているつもりもないのだろう。
 蝶を動かすのは風だ。
 風と己に合わせて、地で踊っている男を見下ろすだけのこと。
 触れたと思い、手のひらを広げてみれば、どこにも姿はない。
 見上げてみれば、蒼い空に、薄桃色の花弁ひとつ。
 やさしき色を見上げたまま、男はその奔放さに途方に暮れる。





 軽いつま先が、地面を蹴る。
 細い枝の上に座り、少年は微笑んだ。
「先輩も来てください」
 促されるままに、兵助は喜八郎の隣に腰をおろす。
 試すような目が、覗き込んでくる。
 この少年は、時にひどく攻撃的に、受身の姿勢をとる。全ての行動を「相手次第」と 踏み、それでいて、挑発をしてくる。
 兵助が考えている間に、大きな瞳は足下の池を映している。
 自然にできたのだろう池は、池と謂えども流れを持っている。細い小川からの水が溜まり、 そして抜けてゆくのだ。
 喜八郎は、静かに水面を指差す。
「蝶が泳いでいます」
 兵助が細い指の先を見ると、池の水面に、青い翅を持つ蝶が浮いている。 まだ最後の力が残っているのか、水を払おうとするように、 翅がかよわく動かされる。
「生きてる」
 その言葉に、喜八郎は何も言わない。
 表情を変えることすらせず、その虫を見下ろしている。
「きれいですね」
 かすかな残酷さの表れ。
 兵助は、動くことができぬ。
 背骨を握られたかのように、微動だにできぬ。
 喜八郎の目が動く。
 兵助は、その目をじっと見つめ返す。
 長い睫の中の黒い球は、蝶に触れることを許してはない。
 顔の色はなんら変わらないのに、まるで首筋に冷たい刃の切っ先が触れている かのようだ。
 兵助は、それを承知で口を開く。
「助けないのか」
「・・・・・・助けられたくないはずです」
「なぜ」
「触れることを、許してはいないから」
 死を恐れているんじゃない。
 人に触れられたくないから、水から逃れようとしているのです。
「いかせてあげてください」
 首筋から、刃が消える。
 兵助は、ゆっくりと、呼吸をした。
 逝かせて、なのか、行かせて、なのか、彼にはわからない。
 ただ、喜八郎にしか見えぬものがあることだけは、わかる。
 彼だけが聴く声、彼だけが見る姿、彼だけが感じる心。
 喜八郎には、きっと、蝶の涙すら見えている。
 それらを侵さぬように、できるだけ静かに、兵助は問う。
「俺は、許されているんだよな?」
 答えの前に、華奢な手を握る。
 ――つかえまた。
 残酷な牽制を潜り抜け、両手のひらを開けば、薄桃色の蝶。
 喜八郎は笑う。
「なにをおっしゃっているんですか?」
 やわらかな翅が、はばたく。
「私は最初から、先輩に全てを許しているのに」
 蝶は、しゃあしゃあと嘘をつく。肘鉄をくらわせ、風が全てと舞うふりをしながら逃げ惑い、 つかまれば「逃げていたわけじゃない」と、しおらしく抱かれる。
 それが悔しいのなら、逃がせば良いだけのこと。
 しかし兵助は、そうすることなどできぬ。
 やっと捕まえた蝶を逃がす余裕など、ない。
 当然、蝶のほうはそれを知っている。
 攻撃的な受身を解き、喜八郎は己を捕まえている男の肩に触れた。
 無言の催促。
 蜜を強請られれば、与えぬわけにはいかぬ。
 しかし、その蜜を望むのは、むしろ自分だ。
 兵助は望まれるままに、口付ける。
 風が吹き、蝶が呼ばれ、再び逃げてしまう前に。












 ネタ自体は3月からあったのですが、形にするまでに長くなってしまいました。 直接的な萌えがない話ですが、精神的に駆け引きをするような、 そんなものを書きたかった、という話です。
 わかりづらかったらすみません。



2007.8.18









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