髪の先の愛

















 夏の夜。
 蛙の泣き声が、あちらこちらから響いている。
 喜八郎は、襖を開け放したまま、兵助の髪の毛を梳いていた。
「夏は乾くのが早くて良いですね」
 先刻まで濡れていた髪は、すでに粗方乾いている。
 毛先までを丁寧に梳かしながら、喜八郎はふと気付く。
 昨晩よりも、毛先が整えられているのだ。
「先輩・・・、髪の毛をお切りになったのですか?」
 そんな些細な発見に、兵助は驚きながらも笑う。
「よく解ったな」
「・・・それはそうです」
 黒い毛先を梳きながら、喜八郎は凝っとそれを見つめる。
 ただ切っただけではない。枝毛もなくなっている。それだけで、彼は誰が兵助の 髪の毛を切ったのか解してしまう。
「タカ丸さんが切ったのですね」
「そんなことまで解るのか?」
「枝毛がありません」
 もっともだと言うように頷き、兵助は苦笑する。
「あのひと、やたらそういうのにうるさくて」
「・・・どうして、タカ丸さんに切ってもらったのですか」
「どうしてって・・・」
 ぽかんとした顔で振り向き、兵助は喜八郎を覗き込む。
 喜八郎は憮然とした表情で、そんな彼を睨んだ。
「どうして、ですか」
「いや、委員会のときにその、枝毛のこと言われて、俺もそろそろ切りたい頃だったから、 頼んだんだけど・・・」
 喜八郎は櫛を置き、正座したまま僅かに後ろに下がる。
 それはとても静かな動きで、兵助はまた自分が何か、喜八郎の 気に障ることをしてしまったのだと気付く。
 そして彼は、呟いた。
 わたしのしごとだったのに。
「え?」
 思わず身を乗り出した兵助から顔を背け、喜八郎は立ち上がる。
 まるで、顔を見られまいとしているようだった。
「綾部」
 振り向くことなく、喜八郎は部屋を出てゆく。
 残された兵助は、戸惑ったまま、畳に置かれた櫛を見つめた。





 喜八郎は、他人に髪の毛を触られることを好まない。
 それを許しているのは、兵助だけだ。
 だからこそ、自分の髪の毛を整えるときは彼にしてもらう。
 しかし、兵助は誰かに髪の毛を触れられることを嫌がっている人間ではない。従って、 誰に髪の毛を切られても構わないし、相手を選ぶこともない。
(私は別に、・・・私以外に切られることが嫌なんじゃない)
 兵助は、項やもみあげのあたりも、丁寧に剃られていた。
 あの肌に、別の誰かの手が触れていたという事実。
 喜八郎は、意味もなく心がざわついた。





 食堂では、タカ丸が箸を握ったまま教科書を開いている。それは1年生が 使っている教科書だ。4年生とは言っても、 彼の忍術の知識は1年は組にも劣っている。それを取り戻すために、彼は 昼夜を問わずこうしているらしい。
 彼の前に座り、喜八郎は「どうも」と頭を下げる。
 タカ丸は人懐こそうに笑い、同じように「どうも」と言う。
 喜八郎は、ぼんやりとタカ丸の手を見つめる。
 この手が、兵助の髪を切ったのか、と。
「ねえ、綾部ってかわいいよね」
「それはどうも」
「しかも、い組でしょ?優秀なんだねぇ」
 さらさらと誉め言葉を言われるが、喜八郎は殆ど聞いていない。
 彼はずいと身を乗り出し、タカ丸の眼を射るように見つめた。
「タカ丸さん、ちょっと毛先を整えてほしいんですけれど」
「え?おれが?」
「はい。タカ丸さんがお忙しいのは知っているんですが」
 ぜひ。
 ほとんど何かの覚悟を決めたように言われ、タカ丸はその気迫のようなものに 身を引いてしまう。
「ど、同級生のためなら、いつでもいいけど」
 その返事を聴き、喜八郎はすぐに身を引いた。
 頼んだはずであるのに、どこか困ったように。





「きれいな髪だね。枝毛もないし、全然痛んでない」
「それはありがとうございます」
 庭先で、喜八郎は足を投げ出して座っている。退屈そうな素振りを隠そうともしない彼に、 タカ丸は苦笑を漏らした。
 背中では、しゃきんしゃきんと音がする。
「ねえ、本当は切りたくなかったんじゃないの?」
「・・・・・・」
「まだ充分整ってるし」
 そう言いながら、タカ丸は喜八郎の首筋や腕に浮き上がっている鳥肌を見つめる。 客の中には時折、くすぐったさの余り鳥肌を立てる者がいるが、喜八郎のそれは、 どうもそういう意味ではない。
 不快感、というよりも、もっと単純に、触れられるのを嫌がる感情。
 できるだけ手早く切りながら、タカ丸はふふっと笑う。
「決死の覚悟、みたいだ」
 その言葉に、喜八郎も僅かに頬を緩めた。
「ほんとうに、そうです」





 髪の毛を切ったことに気付かないほど、兵助は喜八郎を見ていないわけではない。
 彼は困惑したまま、喜八郎の細い肩にかかる髪の毛を見つめる。
 止まった櫛の動きに、少年は振り向いた。
 何も言わぬ目に見つめられ、兵助の胸はざわりと音を立てる。
「・・・髪、切った?」
「それから、項も、鬢も、タカ丸さんに整えて頂きました。髪の毛がきれいだと誉められましたし、 かわいいと言ってくださいました」
 ほとんど挑戦的な言葉に、兵助はぐっと言葉を詰まらせる。
 妙に息が苦しい。
 タカ丸の手が、喜八郎の細い首に触れたことを考える。
 誰にも触れさせない髪の毛に触れたことを考える。
 そう考えるだけで、まるで気道に異物が詰まったように苦しくなる。
 喜八郎の髪や、項や、頬は
 それは、兵助だけが触れることを許されたものであったはずなのに。
 そのはず、なのに。
「わかりましたか」
 当惑したままの兵助に、喜八郎は言う。
 それはいつもと変わらぬ表情だった。笑いもしなければ、哀しそうでもなく、 ただ、わかりましたか、と。
「わかって、くれましたか?」
 問われ、兵助は泣きそうになるほど眉を寄せた。
 そうしたいのは、もしかしたら喜八郎のほうかもしれないのに。
 ごめん、と呟く。
 兵助は、知らなかった。
 ただ髪の毛を切ってもらうことなら、相手に不快感を与えることはないと、 勝手に思っていた。
 しかし今、彼はそれを感じている。
 狂おしいほどの、嫉妬にかられている。
 喜八郎は身体をまわして兵助の手を取り、自分の首に触れさせた。
 そっと目を伏せ、何かに安堵したような、吐息。
 途端、兵助は彼の身体をかき抱いていた。
 頭を抱き、その指を細い髪に絡め、じっと目を閉じる。
 その強さに、喜八郎は再び目を伏せた。
「だいじょうぶですよ。もう、先輩以外のひとには切らせませんから」
 そんなことを言われ、兵助はまた泣きそうになる。
 そう言わなくてはならないのは、自分であるのだから。












 別のひとに髪の毛を切ってもらう話を前から書こうと思っていたところで38巻を 読み、「これはタカ丸くんに決まりだ!」と決めた話です。
 ある意味、久々知よりもタカ丸くんのほうがキャラが解りやすい という感じがしている、今現在です笑



 2006.5.31









inserted by FC2 system