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まっかなてのひら







 もう、どれほどだろう。
 どれほど長い間、こうしているだろう。
 それでもまだ足りないと、喜八郎の中の誰かが囁く。
 足りないのかと、喜八郎も頷く。
 頷いて、少しだけ泣きそうになる。
 下口唇を噛んで、彼は再び、手を洗い始めた。





『事故なんだよ』
 再び、心の中の誰かは囁いた。
 その声に反するように、奥底からもうひとつの声。
『けれど、気付かなかったほうがおかしい』
 喜八郎は心の中で、その声に振り向く。
 背筋が凍えた。
 もうひとりの声は、優しく、喜八郎をなだめる。
『殺そうとしたわけじゃ、ないんだから』
『でも、殺生は殺生だろう』
『だから、事故なんだ』
『そんなのは、言い訳だ』
 ふたつの声は、喜八郎を板ばさみにする。
 彼は心の闇の中で、途方にくれた。
 そんな彼が今できることは、ただ、手を清めること。
 小川の水は冷たかったが、その感覚はなかった。
 感覚が消えるほど長い間、手を洗っていた。
『どちらにしても』
 心の中の声が、ふたつ重なる。
『手は洗わないと』





 優しい手が、肩に触れる。
 そうされるまで、喜八郎は兵助の存在に気付かなかった。
「綾部、どうしたんだ」
 振り向いた喜八郎は、困ったように兵助を見上げた。
 そして自分の手に再び目を落とし、また、見上げる。
 泣きそうな顔に、兵助は動揺した。
「なにか、あったのか」
「・・・手を、洗わないと」
「手?どうして?」
 眉を寄せ、小さく口唇を震わせた喜八郎は、何かを否定するように 左右に首を振る。それが何を拒否しているのか、兵助には 解らなかった。
「・・・綾部」
 喜八郎の隣にしゃがみ、兵助は彼を覗き込む。
 流れる水に手を浸し、喜八郎はひたすら洗い続けている。指の間から、手首まで、冷えて 赤くなるほどに。
「・・・・・・綾部、あかぎれになるぞ」
「いいんです・・・、そのぐらい・・・」
「・・・どうしたんだよ・・・」
「・・・・・・殺してしまったんです」
 殺してしまったんです。
 その言葉の意味が、兵助の頭に染み渡るには、時間が必要だった。
 ひとつの間を置き、ようやく兵助は問い返す。
「・・・殺したって・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・何を?」
 人を?
 そう訊くことができないのは、勇気がないせいではなかった。
 それを誰よりも理解していたのは、喜八郎。
 だからこそ、彼は手を止めることができた。
「・・・うさぎを・・・」
「うさぎ・・・・・・」
 どうやって殺してしまったのか、兵助は問わない。
 問わずに、ただ、喜八郎の手を小川から上げた。
 為すがままの彼の手は、ひどく冷たい。あまりの冷たさに、兵助は 自分に熱があるのかとすら、感じてしまった。
 その赤く、冷たく、ふやけてしまった手を、兵助は自分の手で包むように 握った。己の手が冷えてしまっても、そんなことは問題ではなかった。
「・・・手裏剣の練習をしていたんです・・・」
「・・・・・・うん」
 震える声に、兵助は目を伏せる。
「たまたま、うさぎが、目の前を通った」
 通ったのと、私の手から手裏剣が離れるのは、同時でした。
 だから、止められなくて。
 声すら出なくて。
 私の手から離れた手裏剣は、うさぎの喉に、刺さりました。
 私の手から離れていたのに、その感覚が、伝わりました。
 うさぎの声など聴こえなかったのに、私の耳には、届きました。
 殺してしまうというのは、こういうことなのだと、知ったのです。
 だから、怖くて。
 あまりにも怖くて。
「手を洗うしか・・・、ありませんでした・・・」
「・・・・・・」
 いつしか、喜八郎の声は嗚咽に変わっていた。
 そんな彼に、兵助は言ってやりたかった。





 きみは、優しすぎていけない。

 あれほど残酷に、俺を縛り付けるのに。

 冷たい糸で、俺を締め上げてゆくのに。

 きみは、優しすぎていけない。

 きみは、優しすぎるから。





「忍者になんか、なっちゃだめだ」





 言われた喜八郎は、驚いたように顔を上げた。
 死を宣言された人間のように、目を見開いて。
「・・・・・・だから、さ」
 見入られたまま、兵助は笑みを作った。
 それ以外の表情を作ることは、できなかった。
「だから、ずっと一緒にいよう」
「・・・・・・先輩」
「・・・・・・」
「・・・話が、よく、解りませんよ?」
 そう言った喜八郎は、困ったように笑う。
 彼もまた、笑う以外のことを、できなかった。
 喜八郎の手を握ったまま、兵助は目を閉じる。
「どこかで、何も殺さないで、静かに生活しよう」
 何か作ったり、売ったりして、お金を稼ぐんだ。
 帰ったら、綾部が夕飯とか作ってくれてるんだ。
 金持ちにはなれないけど、きっと、幸せだ。
「そうすれば、いいよ」
「・・・・・・」
 あまりにも。
 あまりにも、夢物語にしかすぎない話。
 大きな現実味のなさに、喜八郎は顔を伏せた。
 だが、それ以上に大きな、幸福。
 それだけの夢を、慰めのためだけに語ってもらえる、その、幸せ。
 嘘であることは、百も承知だった。
 実際にそんな幸せな日々を送れないだろうということも。
 だが、そんなことは、今の問題ではなかった。
「・・・・・・先輩」
「・・・ん?」
 何も言わず、喜八郎は兵助の首筋にしがみついた。
 失いたくないと言うかわりに、強く、強く。
 そんな暮らしをしたいなどと、彼は言わない。
 言えない。
 言っても、いけない。
 そんな哀しみ。
 語る以上の抱擁でしか、返事は許されなかった。








 私の手は汚れています。

 きっとこの先、もっと、汚れてゆきます。

 それでも、そのとき、幸福な嘘をついてくれる人が。

 そんな人が、傍にいてくれたら。

 そんな人は、あなた。





 あなた以外には、いらない。





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 長くなってしまいました。想像以上に。

 冷たさに、赤くなった手。
 殺して、見えない赤に染まる手。
 そんな赤い手の、綾部の話。

 これはトイレで思いついた話です。
 なんて言ったらげっそりされそうですが、言ってみました。
 あと、このタイトルの話は、最初は仙蔵で書いていました。なんだか巡り巡って 綾久々に。




2005.03.23





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