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この胸で







 何度目だろうか。
 兵助が、喜八郎の作った落とし穴に落ちるのは。
 いや、いつもならば簡単に落ちる彼ではない。落とし穴の 見分け方ぐらいできるし、後輩の作ったものに引っかかるほど、馬鹿でもない。
 だが、その時は、はまってしまった。
 この林のどこかで、喜八郎は自分を見つめているだろう。
 それでも、兵助は、穴から出ようとしなかった。
「・・・なんだ、今日は泥水とか、入ってないのか」
 乾いた声で呟き、兵助は地面に手をかける。
 こんなものに落ちてしまうなんて。
 いつもは、落ちずに悔しがる喜八郎を見て、楽しむはずが。
(どうか、してた)
 いや、どうかしてたのは、知っている。
 ちょっと、疲れていて。





「どこか、痛いんですか」
 兵助を落とした張本人が、上から見下ろしている。
 心配している口調でも、顔は真顔だ。
 兵助は苦笑した。
「それが、落とした人間の言うせりふ?」
「・・・心配で」
「落としたのに?」
「捻挫とか、したんですか」
「そう思うなら、落とさなければいいのに」
「でも、面白いから」
「俺が落ちるのが?」
「落ちても、落ちなくても」
 心配している喜八郎は真顔であるにも関わらず、落ちてしまった 兵助が笑う。だが、その声は自嘲的だった。
 地面にかけられた彼の手を、喜八郎が引っ張る。
「・・・上がってください」
 黙ったままの兵助は、言われるままに地面に上がる。
 だが、立つことはせずに、ただ地面に座り込む。
「久々地先輩」
「・・・疲れた」
 喜八郎は兵助の腕を握ったまま、じっと彼を見つめる。
 問うても、答えてはくれないだろうけれど、
「なにがあったんですか?」
 少しだけ笑って、兵助はただ首を左右に振る。
 彼の口から愚痴を聞いたことが、喜八郎にはない。
 それは頼って貰えないからではないということを、彼は知っている。ただ、 兵助の性格によるものであった。
 だから、喜八郎は2度も同じことを尋ねない。
 ただ、じっと彼の言葉と行動を待つ。
「綾部」
 言うと同時に、兵助の額が喜八郎の肩に当てられる。
 それを拒むこともなく、喜八郎は彼の頭を撫でた。
 両手でそっと抱き寄せて、ただ、撫でる。





 長い長い、無言の抱擁。





「俺はしあわせだな」
 手を繋いで山を降りながら、兵助はそう呟く。
 初めて使う単語のように、兵助は「しあわせ」と言った。
「どうして、そう思ったんですか」
「俺には、泣ける胸が、あるからな」
「・・・そんな」
 そんな嬉しいことを思ってくれなくても、いいのに。
 私の胸はあなたのためにあるのだから。
 喜八郎は微かに強く、兵助の手を握る。
「俺はそう思うから、だから」
 綾部も、俺の胸で泣けばいいよ。





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 綾久々は楽しい・・・。
 なんてことを、しみじみ考えて書いた話です。




2004.01.28





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