詛い事 (のろいごと)

















 誰かに愛されているのなら、それは幸福なことだ。
 その人にとって幸福なことなら、それを願うのか。
 自分の幸福を捻じ曲げても相手を想うのが、幸福なのか。
 だとしたら、私はそんなこと、とてもではないけれど、できない。
 ・・・そんな喜八郎の想いは、誰も知ることはなく。





「綾部、どうかしたのか」
 その問いかけに、喜八郎ははっと手を止める。
 背後から、兵助が手元を覗き込んでいた。
「先輩」
「何か、ぼうっとしてたから」
「そうですか?」
 そう返すと、再び邪念を消すように、喜八郎の手は動き始める。手元の紙に、 ただ、書物を書き写してゆくだけの作業。写すということはいい。自分の 考えや、無駄な思考がそこには入り込まないから。
「綾部」
「なんですか」
「俺、そろそろ行くわ。約束があるから」
 その言葉に、喜八郎の手が再び止まる。
「・・・約束」
「うん。友達が街まで付き合えっていうし」
「この間の人たちですか」
「それとは別なんだけど」
「わかりました。気をつけてください」
 微かに微笑み、喜八郎は頭を下げる。
 しなやかな髪が畳につくほど、深々と。
「うん、じゃあ」



 兵助が去っても、まだ、喜八郎は畳から顔を上げない。
 床に触れそうなほど顔を伏せ、じっと畳の目を見つめる。
「・・・私は」
 私は、そんなにいい子じゃないんです。
 いい後輩でもないんです。





 教室の窓から、五年生たちが見えた。
 ふざけながら歩くその中に兵助を見つけることは、喜八郎にとっては 簡単すぎることである。
 何人かの友人に囲まれて、彼は笑っている。
 腹を抱えるように、身体を曲げて、ただ楽しそうに。
 友人の1人が彼の肩を抱く。
 それは当然、友人としての触れ合い。
 だが、喜八郎は下口唇を強く噛み締めた。
(さわらないで)
 その人に触らないで。
(先輩も、何をそんなに笑っているの)
 私の前では、そんな顔で笑わないのに。
 そんなにばかみたいに大口あけて、笑わないのに。
 その顔を、私は知らない。





 私に誰かを呪う力があれば、呪ってやりたい。
 その目が私しか見ないように、あなたに、呪いを。
 全てを越えられるほどの力で、呪いを。





「ひと、かた」
 知らない単語を言うように、兵助は呟く。
 喜八郎の部屋の机の上に、その人形は無防備に乗せられている。誰かを 呪うときに使うそれが、なぜここにあるのか、兵助が知るはずもない。
「誰に使うと思いますか」
 その声に、兵助は慌てて顔を上げる。
 部屋の主である喜八郎が、微笑んだまま戸口に立っていた。
 兵助は机から一歩退き、困ったように喜八郎を見つめた。
「何を、するんだ」
「何をとは?」
「誰かを呪うなんて」
「・・・あなたは、何も知らないから」
「綾、部?」
 襖を閉めて、喜八郎は部屋に入る。
 その目は、じっと人形を見つめていた。
「もう、ひと月です・・・」
「え?」
「もう、ひと月も、先輩と一緒にいる時間が持ててなかった」
 だから、もう、嫌だと思ったんです。
「・・・綾部、意味が解らないよ」
「どうしてですか」
 喜八郎は、両手を強く握り締めていた。
 その手は微かに震え、何かを堪えているのが相手にも伝わる。
「だから、もう、先輩を呪ってしまおうとおもった」
「・・・え?」
 堪えることもできずに、兵助の喉から引きつった声が漏れる。
「先輩が臥せってしまえば、傍にいられるから」
 あの人たちよりも、もっと傍にいられるから。
 あなたにとってそれが不幸でも、それほど耐えられなかった。
 もう、いい後輩でいることにも、疲れてしまった。
「だから・・・」
 続きを言えぬまま、喜八郎はさらに顔を伏せる。
 手だけではなく、肩もまた、震えていた。
「・・・私が、1年でも早く生まれてこられたら、良かったのに」
 そうすれば、先輩の友達たちに、こんな無様な嫉妬をすることも。
 そう言う喜八郎の目尻から、ようやく、涙が流れた。
 その時のその涙を、兵助は綺麗だと、思う。
 不謹慎かもしれない。だが、あまりにも綺麗で。
「綾部」
 震える肩に触れようとした手を、喜八郎は振り払う。
「触らないでください」
「なんで」
 小さな声で、「だって」と、喜八郎が言う。
 私は汚い人間で、あなたを呪おうとしたんです。触ったら、先輩も 汚くなってしまいます。そんなのはいやだから。
「綾部」
 再び名を呼び、兵助は彼に手を伸ばす。
 肩に触れられた喜八郎は、微かに身を引いたが、振り払うことはしない。それでもまだ、 何かを堪えるように顔を伏せている。
「いいよ、呪っても」
「・・・な」
 咄嗟に顔を上げた喜八郎の目尻に、涙が溜まっている。
「綾部しか見えないように呪われても、別にいい」
「よ、良くないです。友達が、いなくなってしまいます」
「でも、その友達に嫉妬したんだろう」
 苦笑する兵助に、喜八郎は反論の言葉を失う。
 あまりに久方ぶりに触れられる頬。
 望みすぎて、呪おうとした人が、目の前で笑っている。
 その事実が、喜八郎にとっては何かの奇跡だった。
「でも、俺は、・・・呪われなくても綾部しか見えてないから」
「・・・けど、私には見せない顔で笑っていました」
「誰と?」
「・・・友達と、いる時に」
 ははっと、兵助は笑う。
「でも、綾部にしか見せない顔もあるだろ」
「・・・・・・それは」
 とてもいとおしそうに、ひたすらに深い愛で見つめる、眼。
 それらの全ては、誰のものでもない。
 誰かのものになるとしたら、それは喜八郎ただひとりのもの。
「・・・先輩、・・・久々地先輩」
 兵助の胸に額をあてて、喜八郎は呟くように名を呼ぶ。
「私しか見ないでください」
 その言葉には、一欠けらの迷いもない。
 我儘だとしても、束縛だとしても、そんなことは構っていられない。
「私だけにしか、その目は向けないでください」
 返事の代わりに与えられるのは、ただ力強い抱擁。





 私しか。
 私しか見ないで。





 繰り返されるその言葉こそ、彼にとっての呪い。














 リクエストをくださった、匿名さまへ。

 愛される久々地と嫉妬する綾部。
 ということで、誰か久々地に対して恋心を抱かせようと思ったのですが、それだと 以前書いた長仙とかぶりそうなので、別の形にしてみました。
 嫉妬のあまり呪いをかけるという、狂気じみた綾部。
 でもその束縛こそが最高の愛のひとつの形だとも思います。




2004.01.16









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