濡れ髪にその櫛を

















 唐突に襖を開けた喜八郎の姿に、兵助は言葉を失う。
 雨のせいか、上から下まで濡れそぼっている。
「遅れてしまって、すいません」
 そういえば、約束の時間を過ぎている。
 だが、兵助にとってはそんなことどうでも良かった。
 なぜ彼が濡れているのか、それが疑問である。
「・・・綾部、どこか行ってたのか?」
「探し物をしていて、裏山まで」
 喜八郎は畳が濡れることを気にしているのか、板の間に正座をする。
 微かに伏せられた睫毛までもが、雫に濡れている。
 兵助は膝で彼の前まで移動して、懐に入れていた手ぬぐいを差し出す。
「探し物って?」
「・・・これです」
 同じように、懐から彼が出したのは、ひとつの櫛であった。
 それはいつか兵助が彼にあげたものである。
「これを?」
「はい。・・・演習の時間に、落としてしまったんです」
 だから、すぐに探さないといけないと思って。
 そう言いながらも、さらに喜八郎は顔を伏せる。
 己の罪を詫びるような彼の姿に、兵助は苦笑した。
「そんなものより、綾部に何かあるほうが心配だ」
「でも・・・!私には、大切なものなんです!」
「・・・綾部」
「だから、肌身離さずに持っていたんです・・・」
 泣きそうになる喜八郎の頬に、兵助は触れる。
 そこは、彼が想像していたよりも冷たい。
「とりあえず、そこじゃ冷えるだろう。入ればいい」
「畳が濡れます」
「構わない」
 濡れたままの喜八郎の肩を部屋に引き寄せて、兵助は襖を閉める。
 そしてそのまま、冷たくなった彼の身体を抱き締めた。
 水を含んだ髪の毛に指を通し、じっと。
「・・・先輩、濡れます」
 それでも、兵助は喜八郎を抱き締め続ける。
 濡れた髪の匂いが、彼をそうさせていた。
 微かに甘いその匂いに、兵助は目を閉じる。
「・・・綾部」
 溜息とも、呟きとも、囁きともとれぬ甘やかな呼びかけに、喜八郎は返事の 声すらも奪われる。
 このひとにあいされているのだ。
 そう知らしめられた気が、した。
「・・・綾部、これも罠か?」
「え?」
「俺がこんな気持ちになるように、また、仕掛けたのか?」
 兵助の肩に額を乗せたまま、喜八郎は左右に首を振る。
「ずるいな、綾部は」
 どうしようもない感情に、兵助は戸惑いすら感じる。
 責任なんか、とってくれないくせに。
 そう言いかけて、彼はじっと押し黙る。
 責任の問題などではない。
 嫌になるほどいとおしいと思うこの気持ちを、どこにやっていいのか 解らずに、その答えを相手に出させようとしているだけだ。
 そんな兵助の心を覗くように、喜八郎は顔を上げる。
「・・・私はずるいですか」
 そう言う彼の額に、濡れた前髪が張り付いている。
 指先でそれを払い、兵助は苦笑した。
「ずるいよ。いつも」
「・・・なら、責任をとらないといけませんね」
「・・・・・・え?」
 兵助が何かを問う前に、喜八郎は自分の濡れた髪を解く。
 冷たい幾つもの水滴が畳に落ち、そして吸い込まれてゆく。
 それは、兵助の意識のようだった。
 喜八郎に吸い込まれてゆく、彼の、透明な意識。
「でも、私も望むことなら、責任をとることにはならないのでしょうか」
 小首を傾げる喜八郎を、兵助は再び掻き抱く。
 着物が濡れようが、そんなことはどうでも良かった。
 目の前にいる、いとおしい人を、ただ、この腕の中で。





 全てが終わったら、丁寧にその髪を梳かしてあげましょう。
 私のあげた櫛で、その濡れた髪を、丁寧に。





 丁寧に。















 リクエストをくださった真崎さまへ。

 私は濡れた髪の匂いというのが好きで、「ああそういえばエロくさいよなぁ」なんて 考えていたら、こんな話になりました。
 濡れ髪は色っぽいと思います。
 久々地もむらむらしちゃうと思います。
 でもそんなこと、綾部は気付いてなさそうな。
 そんな綾久々にしてみました。





2005.01.06









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